memo: 笹原留似子さんのオハナシ、東北沿岸は今

(最期に見送るということ、震災のこと、移り行く求められる支援…)
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ala @w_ala

笹原留似子さん「沿岸の助産師さんからは、涙がとまらない、生活になじめない、そんなお母さんたちの声を聞きます。思いの共有、家族が見つからない…心の折り合いをどうつけるか、街づくりの動き、外から何ができるか、必要とされているものは何か、と。。」

2012-08-20 03:35:02
ala @w_ala

笹原留似子さん「涙は、決して悲しいだけではありません。そうと決めつけるのではなく、受け手側の理解が大事です。そしてわからないことは、聞くことも大切で、それが思いをはきだす、言語化できるきっかけにもなります」

2012-08-20 03:36:42
ala @w_ala

笹原留似子さん「おかわりありませんか、お元気ですか…、自分の意見を言いすぎない、相手の言いたいことを言ってもらうことが大事。心は“移行”します、人は変化します。それを、まず理解」

2012-08-20 03:38:21
ala @w_ala

笹原留似子さん「沿岸では自殺がいま多いです。それを責めることなく、自分ができること、“声掛け”がまず第一歩。ひとりぼっちじゃない、いつも想っている人がいる、自殺してしまった人はただ会えなかっただけ…と。岩手・宮城・福島では、高齢者施設少なく介護や、緩和ケアもいま問題に」

2012-08-20 03:41:11
ala @w_ala

笹原留似子さん「私は死の世界に生きているが、死は生きていくことを考えるきっかけでもある。沿岸の人達、“忘れられていない”と感じること嬉しい、忘れないでもらいたい。市町村への手紙・ハガキ、一つできること、そうした手紙掲出されている。そして出かけてもらい、沖へ手をあわせてもらえたら」

2012-08-20 03:44:21
ala @w_ala

笹原留似子さん「先日、釜石で一人見つかったが、いまもそういう状況。“いつまでも被災者じゃない”という言葉もまたあるが、その言葉には何があるか、一人ひとり感じ考えてもらえたら」 

2012-08-20 03:48:54
ala @w_ala

お茶っこの会: 笹原留似子さんは、緩和ケアの専門医に呼びかけ、被災者と、おしゃべりする場を、昨秋から開かれていて、全国から賛同する専門医の方が自費で通われているとのこと。誰もがいつでも立ち寄れる、場そのものをつくれればと支援を募っている  http://t.co/Y3L3e2VL

2012-08-20 05:21:42
ala @w_ala

笹原留似子さん「いま起こっていることを理解する時間、苦しみ、生きるという方向へ向かって考える時間、生と死はセット。普段の生活の中で考えていたらもっと…と。私が明日生きている保障などない、そう思えば今日こうして出会えたこともまた奇跡」

2012-08-20 03:51:59
ala @w_ala

笹原留似子さん「震災、私はたまたま会社にいたが、沿岸に仕事に出ていれば、亡くなったのは自分だったかもしれない。沿岸、それまで当たり前のように走っていた道が忽然とないような状況、生き残った自分が何をすべきか、その一心だった」

2012-08-20 03:54:36
ala @w_ala

笹原留似子さん「復元のための資材、会社の備品も底をついた頃、4月4日、朝日新聞に活動紹介されると、全国から支援物資が送られ事務所の外にまで段ボールが積み上がった」  https://t.co/pBZeA9ey (いまは、生活の苦しい高齢者などに向けた乾麺などが重宝されるとのこと)

2012-08-20 03:58:49
ala @w_ala

笹原留似子さん「紀州造林の安置所では、200~300人のご遺体が安置されているのを、20人前後の警察官が、体液を拭いたりと懸命にされていました、どれほど大変だったかと。自衛隊の方から、NHK放映後、メールが届きました、思い出してくれること嬉しい“がんばりました”と」

2012-08-20 04:03:06
ala @w_ala

笹原留似子さん「元気になっても、哀しみがゼロになるわけではない、軽くなることもないけれど、記憶をお守りに、一歩ずつ進もうとしている」

2012-08-20 04:04:11
ala @w_ala

笹原留似子さん「“参加型納棺Ⓒ”は、家族中心で悲しみだけで終わらない、それだけでは苦しみになってしまう、思い出がある、ぬくもりがある、そんな別れが必要だとの思いから。いい言葉はオウム返しに繰り返す、“聴くこと”が大事」

2012-08-20 04:06:14
ala @w_ala

笹原留似子さん「福島には、放射能の問題があります。私、“39歳”とテレビで紹介されましたが、7月で40歳になったんです、いいかなっとテレビはそのままにしちゃいましたが。40歳になると、放射能の薬すら、現地ではもらえないんです」

2012-08-20 04:08:09
ala @w_ala

笹原留似子さん「葉っぱ、水に触れられない子ども、“放射能の高低を理解し過ごしている”というけれど、手袋つけての玉入れ、プール復活していない学校も…一体いま何ができるのか」

2012-08-20 04:11:47
ala @w_ala

笹原留似子さん「被災地同士の交流、共有の時間、大人が子どもをフォロー、福島と岩手でと。 時間の経過と共に、求められる支援の形もまた変化、変わってきている」

2012-08-20 04:13:16
ala @w_ala

笹原留似子さん「死に関わるということは、“生”に関わること。今の困難にどう向き合い、一緒に生きていくか」

2012-08-20 04:14:18
ala @w_ala

笹原留似子さん「私が初めて遺体安置所に訪れたとき、ずらり横たわっているご遺体に手をあわせながら、一つの亡骸に釘づけになりました。3歳くらいの女の子の遺体でした。この子を探している家族のためにも処置をしてあげたいと思い、またそのための道具も私は持っていましたが叶いませんでした」

2012-08-20 06:24:30
ala @w_ala

笹原留似子さん「法律では、ご遺族の許可なくして触れてはいけないのです。しかし、遺体安置所を離れた後も、何が何でも戻してあげるべきではなかったのか、激しい後悔の念にとらわれました。私が震災後被災地に行くきっかけをつくって下さった太田宣承さん(碧祥寺)に、その胸の内を吐露しました」

2012-08-20 04:20:39
ala @w_ala

笹原留似子さん「太田宣承さん(碧祥寺)は、それも意味のある縁だと。後悔は勇気に変わる、とことん落ちれば、後は上がるしかないんですよね、誰かに支えてもらってること、勇気にと。3歳の女の子の遺体は、大人サイズしかない納体袋を半分にし収められてました…そこに警察の方の配慮もまたある…」

2012-08-20 06:22:45
ala @w_ala

笹原留似子さん「誰かのそうした、想い、心遣いに気付けるか。そういうことも自分を支えてくれる。当直のおまわりさんには、“一人にならずにすむんですね”と声をかけました、この子のそばにいてくれるんだ、と。安置所のおまわりさん、本当に、いい方、一生懸命な方が多かったです」

2012-08-20 04:27:55
ala @w_ala

( 笹原留似子さんが、怒涛のときを過ごしていく原動力ともなったという、3歳ほどの女の子との出会い )  http://t.co/rqADaqEL

2012-08-20 04:47:55
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ala @w_ala

笹原留似子さん「陸前高田、釜石、宮古…といったところは、リアス式海岸なんですね、いりくんだリアス式海岸に津波がくると、右・左・真ん中からと波が押し寄せ、洗濯機のように渦をまき、粉々にします。大槌・気仙沼など山の方は、火事になり…すごい臭いになるんですね、火事と海と魚と人と」

2012-08-20 04:31:00
ala @w_ala

笹原留似子さん「町が大きく渦巻き、どうにもならなかった。第一波はさほどでもなく、物を取りに帰ったら、第二波が…という状況も。瓦礫の山となった後、自衛隊が道をつくってくれるんですが、瓦礫だけでないわけで、遺体損傷与えないよう丁寧にしてくださるわけです」

2012-08-20 04:33:29
ala @w_ala

笹原留似子さん「子どもは、自衛隊の方に遊んでももらいました。また町の消防団の方の中には、津波がくるとわかって、それでも誰かがやらねばと振り切って水門を閉めに、電気が通じないから半鐘で皆に危険を知らせるためにと、あるいは誰かを助けるためにと飛び出して行った方々が」

2012-08-20 04:36:11