【真・シューニャリアーナ序曲】私の哲学
- L_O_Nihilum
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僕がフォロワーの人と対話していたとき、ユウキさんが入ってきて、ツッコミをした。
@hadoron1203 そして絵師から美しさを見出すというか、絵から美しさを再認するという活動が欠如する、と。絵師を画家として再認するという仕事も、評論がその文字通りの役割を持つなら、必要だとしているのが私でしょうね。
2012-08-25 01:11:39@L_O_Nihilum @hadoron1203 割り込み失礼します。僕もそれには参加したいと思います。前々からそのことを感じており多くの人がキャラ萌えに留まっているように感じました。僕はそれだけでは済まされないもっと内側を話すべきじゃないかなと考えています
2012-08-25 01:20:39@amamiya1yuuki @hadoron1203 はい。僕もそのように考えてますね。キャラに萌える、それは解る。でも、萌えるからにはなんかそう萌えさせる魅力ってあるはずなのね。それを語ろうとするところで初めて趣味の洗練があるのに、これが描かれずに今に至っている。
2012-08-25 01:22:40@L_O_Nihilum @hadoron1203 では一つ、しゅーにゃんさんには言いましたが僕は萌えが完全に欠けているひとです。理解はできてもそうなることはもう無いでしょう。だから本当に魅力的なものとそうでないものが見えるときがあります
2012-08-25 01:32:06※これ重要。
そう、「萌え」を使わない語りだって、あっていいのです。
@amamiya1yuuki @hadoron1203 萌えが欠けている、というのは?萌えに、なにか完成したものがあるのでしょうか?僕も、それがあるとは思いません。ただ、今こうして扱える範囲の広い言葉になったことで、誰もがそれを扱って考えることができるという意味で萌えを言うのです
2012-08-25 01:35:20@L_O_Nihilum @hadoron1203 何か勘違いされているかもしれません。僕は萌えを感じることができません。多分一般的な意味で。
2012-08-25 01:53:01@amamiya1yuuki @hadoron1203 でも、「かわいい」とか「かわいそう」とか、そのあたりを考えることは可能ですよね?僕はよく萌えを例にするけれど、別に使わない、萌えが己の言語に無い方はそれを無理に使う必要はないわけです。
2012-08-25 01:54:35@L_O_Nihilum @hadoron1203 そうですよねー。何か違う意味合いのように使っている人がいたので違和感を感じていました。萌えっていうのは一般的な感情の何かであるはず。なのに全く新しい感情みたいに使われてる気がしたので「萌えが欠けている」なんてことを言うのかな?
2012-08-25 02:03:50私はオタクだ。ゲームオタクだ。
萌えアニメ等の絵画の画風、そしてそれを萌えと讃えるひとたちのあいだにずっといて、その萌えという感触を感じてきた人だ。
しかしユウキさんはそうではない。
ユウキさんには「萌え」が存在しない。
ところで、私の語るべきことは確かに、萌えの再構築であった。だが。
萌えの再構築の延長線に、萌えだけではない、つまり、
『萌えが疎外している』様々な享受があること、それを語ることの価値も、私の思想だったはずだ。
だから、今このように言って貰って、僕はお返しをしなきゃいけない。
僕の、哲学的思想的な立場ってやつを、そろそろ明らかにしないと。それは、今の僕が日本中に発信できるメッセージだ。
ユウキさん、今、やっとあなたの問いかけに答えるための言葉が揃いました。そしてそれは、あなただけではなく、私たち皆に届けられる言葉として今、僕からやってくるのです。
さあ、再び、哲学の序奏曲だ。
楽しみを語れ、語りえぬものを語れ、というときに「萌え」て語を使っちゃった人としての責任です…楽しみとしての萌えを、感じた萌えを語れ、と僕が言ったものについて、これはちょくちょく解説が要るかもです
2012-08-25 18:14:33どうしてそこで「萌え」を語れ、と言ったかというと、これは僕の以前からの考えに基づいているもので、より一般化した意味や意義として言うのなら、別に「萌え」でなくてもいいのです。この辺の事を、しっかり事情つけて話とかなきゃなーと。
2012-08-25 18:15:48例えばその人が何かについて語るとき、「萌え」がその人の空間に存在しない場合は、その人の心の中、また言語空間のなかには萌えは無いわけなので、萌えを語ることはできません。
2012-08-25 18:16:29これはいつの時代何処の国においても同じことです。「おかし」とか「ゆかし」って動詞が昔の日本語にはありましたが、僕らのなかにはその「おかし」という世界や「ゆかし」という世界が在りません。ですから、語ることはできないのです。これと同じこと。
2012-08-25 18:17:25インストールされているOSだと言ってしまってもいいかもしれません。岡田斗司夫先生は、第三世代、ことにゼロ年代と呼ばれるオタクの在り方を疑問視していましたが、彼は第一世代のオタクのOSがインストールされていて、第三世代のプログラムとはコンフリクトを起こしている。
2012-08-25 18:18:27だから、第一世代的な方向から自分の世界の言葉をもって、第三世代を語るしかなかったし、彼でもまた、「萌え」とはなにかについて、語ることは出来ていませんでした。せいぜい、第三世代が、やたら「萌え」を商業に流通させ始めた、という事実を見つけたにすぎません。
2012-08-25 18:19:20もうちょっと難しくするなら、ヴィトゲンシュタインという哲学者の考えでしょう。言語の限界が、世界の限界である。ということは、知らない言葉の働く世界はその人には無いから、説明できないのです。言い換えると、”そのひとの言葉の空間のなかで”(所謂萌えと言われうる絵画なども)語られるのです
2012-08-25 18:20:54さて、そこで、僕がなんでいちいち「萌えを語るなら自分で萌えを語れ」といちいち「萌え」を持ちだしてこう言ったのか?弁明が必要になります。
2012-08-25 18:21:44それはこういうものです。僕は萌えという文化の当たり前に育っていく環境にいて、容易く萌えのOSをインストールされている人間なのです。ですから、それに対する意識も「萌え」という言葉で話すことが出来るし、萌えを使って語ることが出来る。
2012-08-25 18:22:45しかし、そうした私のような人がいる世の中においても、どうやら、本当の意味で「萌えを語る」ことが出来てない人があまりにも多すぎた。いや、語ることのできる人もいた。けれど、そういう語りは社会に出てこないで、どうしようもないもっと危険で、適当な扱い方で「萌え」を使う人が多すぎた。
2012-08-25 18:23:54そしてそういう適当な、「萌え」が、しかも社会的に報道され、それが世の中を動かしてしまっている。そういう状況が、僕にはいてもたってもいられなかったから、です。
2012-08-25 18:24:42簡単にお話しますと、まず彼らは「萌え」を、商売のためのシステムとして考えます。そして、様々なパーツがあるだけで僕たちが、まるでパブロフの犬であるかのように「萌え」る、つまりそのようなパーツに釣られている、というような形で扱ってしまう。
2012-08-25 18:25:57そしてそういうものが、企業の創るゲームやアニメなどと言った産業の要素としてどんどん登録されて、組み合わせられて売り出されている、というようなことを言い出すわけです。要するに、「流行としてのパーツ」として萌えを語ってしまう。
2012-08-25 18:26:51キャラが一人いる。そのキャラがある衣装をしていて、ある表情をしていて、それがなんとなく心に来て、「萌え」る。そこには何かあるはずなのに、こういうところには全然関心を入れてくれず、ただそういうのが「流行」なんだみたいな語り方で、理論を立てて、社会に発信してしまう。
2012-08-25 18:27:58