しかし現実的には「誰も犠牲にせずに、全員を救う」などということは不可能。正義を追求しようとする者は、少しでも正義に近づくため、つまり少しでも多くを救うために「少数を犠牲にして多数を救う」という「正義のための悪」という苦渋の選択をすることになる。
2012-09-22 22:43:30「誰も犠牲にしない」という理想論の結果はたいてい「誰も犠牲にできないあまりに誰も救えない悲劇」に帰結する。正義をかたくなに守ろうとする姿勢こそが全員救済という「正義から最も遠い結末」を招いてしまうのである。
2012-09-22 22:45:04だから、正義のために「最少の犠牲」という悪を選択することはまさに正義を追求する故。正義のために悪を行使する者は、どうしても平和を実現させたいと言う理想の高さ故にこそ、それを実現するために悪が必要だという現実から目をそむけずにいるのである。
2012-09-22 22:45:33彼の過去は正義を実現するには誰かを犠牲にすることは必要と言う真実を雄弁に語る。だからは彼は正義に沿った手段で正義が実現できるなどという幻想は捨て、ひたすらに現実的な「悪」により正義を実現しようとしたのである。
2012-09-22 22:47:59そういう意味では、切嗣は世界平和という理想主義的な目的を抱きながら、その手段は極めて現実的。理想主義と現実主義の両面を持っている。これは彼が二面的だということではなく、どうしても平和を実現させたいと言う理想の高さ故にこそ、それを実現するために現実を合理的に捉えていたということ。
2012-09-22 22:48:50切嗣は常に最小の犠牲を選択してきた。それで確かに一時的には多数は救われる。一時的には。彼が気づいていなかったのは彼が少数を犠牲にして守った人間たちの間にもやがて争いが生じるということ。
2012-09-22 22:52:16切嗣が気づいていなかったのは、いや目を背けてきたのは「少数を犠牲にしなければ多数を救えない状況」は決して偶然の産物ではなく、争い合おうとする人間自身が原因だということ。人間がある限り犠牲は必要。だから世界平和と言う「正義」は「悪をもってしても」決して実現しえないのだ。
2012-09-22 22:54:24切嗣が少数の乗客を殺さなければならないのは、一見すると「突然船底に空いた穴」という偶然に過ぎないのではないかと考えそうである。切嗣自身も聖杯と対話するまではそう考えていたはずだ。いや、思い込んでいたはず。
2012-09-22 22:52:31「船底に空いた穴」というのは「人と人の争いなどどこにでも、どんなきっかけでも起こり得る」という示唆。 200人の船の乗客は「先にこちらを直せ」と言って切嗣を拉致する。どちらの船も直すということを不可能にしているのは他ならぬ人間達自身。
2012-09-22 22:56:13新たな争いが起これば、切嗣は「最少の犠牲」によって正義を追求するために再び犠牲を払わなければばならなくなる。争いと犠牲の無限ループ。人間ある限り争いはあり、争いある限り犠牲が必要になる。だから、「最少の犠牲」による「正義」の追求は人類の滅亡という正義から最も遠い「悪」に帰結する。
2012-09-22 22:58:57正義の追求の結果がまぎれもない悪であることを悟った切嗣は「家族2人を犠牲にして人類60億を救う」という理由で聖杯を破壊する決断をする。「最少の犠牲」の追求の結果としての人類滅亡を「最少の犠牲」という信念によって否定しているという完全な矛盾。
2012-09-22 23:00:30誰も犠牲にしなければ「誰も犠牲にできないあまりに誰も救えない悪」に、犠牲を払うという「悪」を背負っても「誰かを犠牲にするが故に全員を犠牲にしなければならなくなる悪」に。
2012-09-22 23:03:55「僕はね、正義の味方になりたかったんだ」という言葉はとてつもなく重い。救えなかった懺悔でも、選択を誤った後悔でもない。彼は悟ったのである。「正義は追求すればするほどに悪になっていく」という究極的な矛盾に。
2012-09-22 23:05:53