新生児を危険にさらしてまで自宅出産する必然性はどこから生まれるか
もしもトラブルさえなければ、自宅出産の快適さは病院出産の及ぶところではない。アメニティーという条件で比較する場合、自宅出産を賛美する側に「病院の条件を向上させれば」という理屈を言っても絶対に通じないだろう。
2012-10-21 08:53:04@geppeeee 以下、私は自宅出産の賛美者でないことを前提にお読みいただきたい。自宅出産のアメニティーは単に快適であるということを超越している。そこには家族にまつわる物語があり、傷つけられた家族の在り方が象徴的に恢復されるという信仰があるのだ。
2012-10-21 08:57:05@geppeeee 天童荒太の「悼む人」の中でも自宅出産は扱われている。なぜ普通だったら自宅出産ができないような条件を侵してでもそれをなさねばならないのか。そうしなければならない傷を家族が既に抱えているのだ。母子の命を賭けねばならないほどの。
2012-10-21 09:00:46@geppeeee 「自宅で無事に生んだ」というエピソードが付け加えられなければ家族は緩慢な悲劇でしかないが、上手く行けば幸福な家族として再生できる。そういう物語の中で生きざるを得ない人々というのが少数ではあるがいるのが現実なのだ。
2012-10-21 09:04:56@geppeeee 緩慢な悲劇の中にいる人は、衝撃的な破滅を怖れないことがある。それどころかこの状態を終わらせるためなら破滅でもいいという潜在的な願望がある。そんな状態の人間がやる大博奕を理性的な代替案は止められるだろうか。おそらく無理だ。
2012-10-21 09:07:18@geppeeee 緩慢な悲劇と言わないまでも日々の生活に漠然とした、誰もが抱えるような空虚感の中で暮らしている人々にとって、その家族再生の物語は強烈なまでに魅力的だ。医療の側が提供できるのは正確なデータだけだ。
2012-10-21 09:17:57@geppeeee 幾許かの人はそのデータを見て自分が引き替えにしようとしているものに気がつくだろう。しかし、どうしても届かない領域というのはある。もどかしいが、それについては諦めるしかないのである。
2012-10-21 09:19:50@sayakatake 一致協力や危険を乗り越えるということだけでなく、「普段皆が暮らしているこの家でこの子は生まれた」ことが特別な意味を持って、家族を再生させるという神話ですね。信仰ですからシンプルで手強い。
2012-10-21 09:29:09