鹿ヶ谷事件とか法勝寺執行の濃いメンバーとかのこと

*鹿ヶ谷事件、西光が斬られ(成親配流はのちほど) *俊寛も務めた法勝寺執行の濃いメンバー などざっくりと大河まとめから抜き出しましたw
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長方の意見
【玉葉安元三年5月21日条】
法家、所当の罪状を勘じ了んぬ。一等を減じて配流、異議に及ぶべからざるか。ただし、其の罪謀反に渉るの由勘じ申す。理然るべしと雖も、事訴訟より起り裁報を蒙らんがため衆徒を催し、陣頭に参らしめ、その間の狼藉のこと図らざるより出るがごとし。偏に謀反に処し難きか。然りと雖も衆徒の騒動、かの結構たるの由、すでに以って露験あらば、あに霜刑を遁るべけんや。須く法に任せて行わるべきの処、明雲一乗妙経を以って公家に授け奉り、菩薩浄戒を以って法皇に授け奉る。而して忽ち還俗せしめ、流刑に処するの条頗る余儀に及ぶべきや。宜しく勅定に在るべし

========天台座主奪還劇============

20日に仗儀が行われ、21日夜明雲殿は配流となりました。
この時「度縁」(僧が得度した際に太政官から交付される身分証明書。死亡、還俗の際回収)を返上、還俗
「大納言大輔藤井松枝」という俗名を付けられました(平家物語)

【清獬眼抄  後清録記 治承元年5月22日条】
「去る夕、前座主明雲、伊豆に流され了んぬ。追使志重成、白川房より相副い一切経別所へむかう」
 
▽この時代、西国配流の時は七条朱雀まで、東国・北国の時は粟田口辺まで追立の官人が送り(通常検非違使)、その先は領送使が護衛。
今回伊豆配流であり、右衛門志中原重成が「追立の官人」、伊豆へは伊豆守源頼政殿が護衛する手はずになっていました。
「一切経」とは、東山区日ノ岡一切経谷の地名が残っています
また、信西入道の子、静憲法印(この時は権大僧都)が名残を惜しみ粟津まで見送りしました。

【顕広王記 治承元年5月23日条】
「前座主配処に向かわるるの間、山大衆二千人ばかり近江国分寺中の路を遮り、その身を奪い取り登山し了んぬ。座主頻りに固辞せらると雖も、衆徒敢えて承知なし。以っての外の遺勅なり」

.。o○(志賀、唐崎、山田、矢橋あたりに大挙して押し寄せました。ちなみに、矢橋の渡の傍らにある石津寺には義詮ちゃんが建立した本堂があります)

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【ここまでの経過】
*安元三年(1177)5月5日
 ・明雲殿、天台座主解任
*5月11日
 ・明雲に罪名を勘申させ、所領を没収
 ・後白河院の弟 覚快法親王が座主となる
*5月15日
 ・延暦寺の僧綱(僧侶を管理するために置かれた僧官の職。大僧都一人、小僧都一人、律師4人からなる)が法住寺殿参院。座主の配流例はないとして免罪を訴えるが後白河院はこれを拒否。
*5月20日
 ・明雲罪名についての公卿議定。後白河院、「還俗、流罪の宥免決定」を一蹴。
*5月21日
 ・伊豆配流決定の明雲、京を出立
*5月23日
 ・延暦寺大衆、明雲を近江瀬田で奪回。
 ・後白河院は延暦寺総攻撃の意を固めるも、近衛大将父上、宗盛叔父上が「福原の指示なくしては動かず」とこれを拒否。
 ・後白河院、祖父上に急使を送り比叡山攻撃を命じる
*5月27日
 ・夜、祖父上が福原から入洛。
*5月28日
 ・祖父上は法皇に拝謁、東西の坂本を固め比叡山を攻めることが決まったが、叡山と事を構えたくない祖父上は喜ばなかった(玉葉27,28日条)
 ・28日延暦寺の僧綱が比叡山に登り、明雲を引き渡すように求め、また謀反の意趣を尋ねた。
*29日
 ・洛中に軍兵が充満。後白河院の宣旨により近江・越前・美濃の武士が動員される。
 ・多田行綱の密告により鹿ヶ谷の陰謀発覚
 ・比叡山への出陣をやめ、平貞能に命じて一門の者を招集。
(この時、「右大将宗盛、三位中将知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛以下の一門の人々、甲冑弓箭を帯してさし集ふ」(平家物語)とあります。せっかく行盛が出るチャンスだったのにw)

【玉葉 安元三年6月4日条】
去る夜亥の刻、入道(清盛)の許、搦め召すの輩六人と云々。
法勝寺執行僧都俊寛、
基仲法師、
山城守中原基兼、
検非違使左衛門尉惟宗信房、
同平佐行、
同平康頼。
已上、法皇近習の輩

*この時、祖父上は後白河院に対し、検非違使安倍資成をして
「新大納言成親の卿以下近習の人々、この一門を亡ぼして天下を乱らんとする謀反の企てあり。一々に搦め捕って尋ね沙汰仕り候ふべし。それをば君も知るし召さるまじう候と申すべし」と申し上げました。

つまり、「平家に対して謀反を企んだ奴らを残らずしょっぴくので、院はそれをスルーして下さい」。と申し上げたところ、

後白河院
「あゝはやこれらが内々謀りし事の漏れ聞こえけるにこそ。さるにてもこは何事ぞ」とばかり仰せられて、分明の返事もなければ

(゚д゚)!もうバレたのか。それにしてもこれはいったいどうしたことか」としかおっしゃらなかった

ので、安倍資成がその旨報告すると、祖父上は「やはり( ̄ー+ ̄)キラリ 行綱がこのことを知らせなければ大変なことになっていた」と、筑後守平貞能、飛騨守景家を召して、謀反の輩を捕縛するようお命じになりました。

========西光が斬られ============

【平家物語 西光が斬られの事】

西光
「(略)そもそも御辺は故刑部卿忠盛の嫡子にておはせしが、十四五までは出仕もし給はず、故中の御門の藤中納言家成の卿の辺に立ち入り給ひしをば京童は例の高平太とこそ云ひしか」
「しかるを保延の頃、海賊の張本三十余人搦め進ぜられたりし勧賞に四品して、四位の兵衛の佐と申ししをだに、人皆過分とこそ申し合はれしか。殿上の交わりをだに嫌はれし人の子孫にて、今太政大臣にまでなりあがつたるや過分なるらん。もとより侍ほどの者の、受領・検非違使に至る事、先例法例なきにしもあらず。なじかは過分なるべき」
とはばかるところもなう云ひ散らしたりければ、入道相国あまりに腹を据えかねて、しばしは物をも宣わず。

↑【中右記 大治四年正月24日条】
「左兵衛佐 平清盛(此春爵を給はる。十年備前守忠盛の男。人耳目を驚かすか)」
12歳で元服、従五位下に叙せられ左兵衛佐に任じられました。
ついで、石清水臨時祭の舞人を勤めましたが、その時祖父上の馬の口取りを務めたのは、白河法皇の養子、内大臣源有仁公の随身でした

。o○(このドラマでは、祖父上の実の父は畏れ多くも白河院であり、祖父上はけして得体のしれぬ男ではありませんよね。というか、阿波の在庁官人上がりの西光殿こそ、得体のしれぬ男w)
.。o○(この初期設定がどうしてこうなったのかわかりませんが、自分は王家の一員であるのにもかかわらず武士として扱われたことがコンプレックスなのか、平氏の中で「皇子」扱いされずになかなか棟梁と認めてもらえなかったことがコンプレックスなのか…)
.。o○(そもそも信西入道殿こそ、身分が低いゆえに出世できぬことをはかなんで出家したということを西光殿はお忘れのようで。)

【西光】
「平家物語」
(藤原)師光は阿波国の在庁、成景(西景)は今日の者、熟根(素性)賤しき下臈なり
「玉葉承安三年3月10日条」
院(後白河)に伺候の入道法師(名は西光、左衛門尉入道なり。故信西の乳母子と云々。浄妙寺領に堂を立て供養せしむと云々。上皇渡御、公卿、殿上人、院の北面の人ら、済々行き向ふと云々。
鹿ヶ谷事件で捕縛され、五条西朱雀にて斬首

【玉葉 六月二日条】
「西光尋問せらるるの間、入道相国を危うくすべきの由、法皇および近臣ら謀議せしむるの由承伏す。またその議定にあずかる人々の交名を注し申すと云々。かの状に随ひ、捕らえ搦むべきの輩、甚だ多しと云々」

【愚昧記 六月二日条】
「西光の頸、今暁斬り了んぬ。五条坊門朱雀に於いて切ると云々」
【愚管抄】
「白状書かせて、判させて、やがて朱雀の大路に引出でて頸切てけり」

【ちなみに】
西光殿を拷問にかけたのは松浦太郎重俊。
金刀比羅本「平治物語」によれば、平治の乱の後、
藤原信頼、源義朝郎党 志内景住を斬首したのもこの重俊とされています。

*拷問の様子
【愚管抄】
「八条の堂にてや 行(一本は「や竹にかけてひしひしと問ひければ」
【延慶本】
太きしもとを以って七十五度の考訊を加えたり(考訊とは、肉体に苦痛を与えて尋問すること)

「しもと(笞・杖)」
「獄令」、「断獄律」の規定では、長さ三尺五寸、太さ本で直径四分(笞は三分)、末で三分(笞は二分)の竹を用い、背と臀を打つ。
拷問は三度以上はできず、拷問と次の拷問の間は二十日あける必要があり、総杖数は200以上はできない。

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【ここまでの流れ】
*安元三年6月1日
 ・早朝、西光殿を捕らえ尋問
 ・側近・妹尾兼康に成親殿を召し捕らせる。
 ・この騒ぎを知った延暦寺側から、必要ならば加勢するとの使者到来
*6月2日
 ・成親殿、備前国配流
*6月3日
 ・西光殿、五条西朱雀で斬首

【ちなみに】
後白河法皇近臣 平業房も捕らえられますが、法皇の度重なる要請により、彼一人放免されます。
彼の妻が後に後白河法皇の寵姫となる 丹後局(高階栄子/私から見てものすごく遠い親戚ですw「義経」では夏木マリさんが演じていらっしゃいました。あのときもものすごいヘアスタイル。院の寵姫=奇抜な髪型なのでしょうかwwww)

*鹿ヶ谷事件の処理では私刑が多いのですが、解官、補任は宣旨によるものです。

成親殿の場合
【玉葉 安元三年6月11日条】
「禅門(平清盛)私の意趣に依ってその志を遂ぐ。よって公家より停任せられず。自余の輩に於いては、上より御沙汰あり」

6/1  とらわれる
6/2  備前配流
6/18 解官(既成事実の追認)
7月…。

その後、中宮の平産を祈り、藤原成経、平康頼を赦免しました。
赦免されたものが多いのですが、配流についても赦免についても資料が乏しいのは、これが公的な制裁でなく私刑だからです。

平 資盛 @sukemori_t

そういえば、成親殿の兄、隆季殿は鹿ヶ谷事件当時、後白河院庁執事別当でしたか。

2012-10-29 01:53:39
平 資盛 @sukemori_t

西光殿の一族、衛府の尉が多いですね。 「藤原師光」時代、内舎人・滝口から左衛門少尉にのぼったのは、主信西殿の大内裏再建に対する恩賞。 鹿ヶ谷事件で、祖父上が討手を派遣した際に、師高らとの間に合戦が行われ死者が出たのは当然のことでした。

2012-10-29 02:11:35
平 資盛 @sukemori_t

ちなみに、師高の尾張配流は宣旨によるもので、れを討伐するのはもちろん違法。これも私刑ですね。

2012-10-29 02:12:16
平 資盛 @sukemori_t

成親殿にいたっては、護送時点でまだ官位剥奪されていません

2012-10-29 02:13:23

=======素敵な法勝寺執行ラインナップ====

平 資盛 @sukemori_t

ところで今日出てきた俊寛僧都は法勝寺の執行ですが、執行というのは寺社の実務を管掌し、座主・長者などのもとで事務を統括する役職。 この法勝寺の歴代執行がなかなかのメンバーなのです。 初代・静憲 2代・寛雅 3代・俊寛 4代・静憲還補 5代・能円(尊勝寺執行) 6代・章玄 7代・尊長

2012-10-28 20:50:27