鹿ヶ谷事件とか法勝寺執行の濃いメンバーとかのこと
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初代・静憲 *信西入道の子(天治元年/1124年~?) *保元元年(1156)12月29日、法成寺での天台堅義の堅者を務める *保元二年、最勝寺上座。この頃法勝寺執行となる *平治元年(1159)、平治の乱でその職を停止。安房配流となる。 *永暦元年(1160)赦免
2012-10-28 20:50:58【静憲(続き)】 *長寛二年(1164年)蓮華王院上座、法眼 *承安元年(1171)後三年合戦絵巻を作る 【康富記 文安元年閏六月二十三日条】 「この絵巻四巻あり。承安元年月日、静憲法師、その時は上座にて仰せを承り、絵師明実をして図せしむなり」
2012-10-28 20:51:59【吉記 「承安四年(中略)招引する所なり。件の絵、義家朝臣、陸奥守たるの時、彼の国の住人武衡、家衡らと合戦の絵成。件の事、伝言有りと雖も委しく記さず。また画かず。静憲法印、先年院宣を奉って、始めて画き進めしむるなり。かの法印、御倉より借り出してこれを送る。徒然をけさんがためか」
2012-10-28 20:53:14*承安三年(1173)6月5日、最勝光院執行兼任、法印 *治承元年(1177)6月18日 「法印静憲 法勝寺執行に補す」(玉葉) *元暦元年(1184)正月、三種の神器についての平家との交渉を辞退。
2012-10-28 20:54:40【玉葉 二十九日条】「西国のこと、追討使を遣さるる事一定なり。今日已に下向(去る二十六日出門)と云々。その上、猶静憲使節を遂ぐべきの由仰せあり。静憲辞退すと云々。その故は御使を遣さるるは、畏懼の心を後によらしめ、三神安穏入洛のためなり。(続)
2012-10-28 20:55:22しかるに勇者を遣して征討の上は、何ぞ尋常の御使に及ばんや。道理叶はず。また使節を遂げ難きの故成と云々。申すところ尤も理あるか。凡そ近日の儀、掌を反すが如し。不便々々」 こののち5月、里坊に下がり籠居。 *建久三年(1192)、後白河法皇崩御。入棺の役
2012-10-28 20:55:492代・寛雅(康和四年/1102~?) *【兵範記 嘉応元年六月二十六日条】「(法勝寺)執行寛雅」 3代・俊寛(寛雅の子 生没年不詳) *【兵範記 仁安二年三月十日条】「法勝寺御念仏、執行上座法眼俊寛」 *鹿ヶ谷事件によりその職を停止、鬼界ヶ島に配流。彼の地にて没
2012-10-28 20:56:144代・静憲(治承元年~三年) 5代・能円(1140~99) 治承三年~寿永二年 *皇后宮左小弁藤原顕憲の息。母は二条大宮(太皇太后令子内親王)半物。平時子、時忠の異父弟(同母) *治承三年(1179)法勝寺上座、執行となる。
2012-10-28 20:57:18*承安元年(1171)藤原在子(妻、藤原範兼の娘範子との娘で、のち源通親の養女となる)生まれる。 (範子は高倉天皇皇子尊成親王(のちの後鳥羽帝)乳母となり、能円も養育にあたる) *文治元年(1185)壇ノ浦合戦。能円も捉えられ、備中に流される。
2012-10-28 20:58:44*寿永二年(1183)7月25日、平家都落ちに同行。妻・範子に尊成親王とその母(坊門信隆女 殖子)とともに西国に来るよう伝えるも、範子の兄範光が反対。8月20日、尊成親王は践祚して後鳥羽帝となる。
2012-10-28 20:59:22*文治元年(1185)壇ノ浦合戦。能円も捉えられ、備中に流される。 *文治五年(1195)召還 *建久六年(1195)11月、在子が後鳥羽帝皇子為仁親王を産む。 (範子は源通親と再婚、在子は通親の養女となり後鳥羽帝の後宮に入っていた)
2012-10-28 20:59:44*建久九年(1198年)正月11日、後鳥羽帝、為仁親王(土御門帝)に譲位 【玉葉 7日条】「桑門の外孫、かつて例なし。しかるに通親卿、外狙の威を振はんが為」 *正治元年(1199)8月24日 没
2012-10-28 20:59:526代・章玄(~承元二年/1208) *興福寺僧。美福門院御願 歓喜光院執行。父は法眼静俊。木工頭藤原通輔孫。 *承元二年(1208)5月15日、法勝寺九重塔に落雷、炎上。執行法印章玄急死(86歳)
2012-10-28 21:00:087代・尊長(承安二年~承久三年/1221) *権中納言一条能保(頼朝の妹婿)の息。法勝寺、蓮華王院、歓喜光院、最勝四天王寺執行。延暦寺諸堂造営料として、備前国を与えられる。 *【明月記】「承元二年五月十八日、尊長僧都を執行に補す」
2012-10-28 21:00:29