鹿ヶ谷事件とか法勝寺執行の濃いメンバーとかのこと

*鹿ヶ谷事件、西光が斬られ(成親配流はのちほど) *俊寛も務めた法勝寺執行の濃いメンバー などざっくりと大河まとめから抜き出しましたw
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鹿ヶ谷メンバーズ

【俊寛】
村上源氏。法勝寺執行、権少僧都。祖父は権大納言源雅俊。父は法勝寺上座、法印権大僧都寛雅。
池殿 頼盛大叔父上のご正室 大納言局殿は俊寛の姉妹。つまり、俊寛は平家に連なる人物。←池殿の立場を理解する上でも重要。
鬼界が島に配流、共に流された二人は赦免となるが、俊寛一人島に残され、彼の地で没。

【多田蔵人行綱】
清和源氏。源頼光の子孫。摂津守頼盛の子。摂津国多田荘を本拠とする。
鹿ヶ谷の謀議に参加するも、平清盛に密告。死罪を免れ安芸国配流となり、やがて許され平家に従った
寿永二年、源義仲が都に迫ると摂津・河内で平家に抵抗。
義仲と後白河法皇の対立が深まると、後白河法皇方につき、義仲が法住寺殿を攻撃した際は御所を警護して敗れる。
源義経、範頼が上洛すると行綱は義経に従い一の谷を攻める。
その後義経と頼朝が対立し、義経が西海に逃れようとした時、行綱は摂津国河尻で追撃。その後の消息は不明。
ここまで「主」の変わる武者もそうはいないのでは。

【藤原雅綱】
右中弁藤原有信の子とも、阿波権守藤原経尹の子とも言われる。
鹿ヶ谷事件で捕らえられ、一旦許された後再び召し取られる。
播磨国明石に流されるが、のち赦免。
帰洛後は法皇に重用され兵庫頭となるが、源義仲が法皇を幽閉した際解官される。
やがて復官するも、頼朝が院近臣らを多数解官した際に、雅綱も外官された。
法皇崩御の際素服を賜り、また入棺役を務める

【惟宗信房】
承安四年「吉記」に「検非違使(略)信房」とある。
鹿ヶ谷事件で捕らえられ、阿波国に流される

なお、明雲が調停によって解任される前夜、この検非違使信房に引き渡され、家門は縄で結ばれ、家内に人なく、井戸は蓋で覆われるという状態にされた。

【新平判官資行】
系譜未詳。馬允平扶重の子。近衛帝の御代に滝口だったが、近衛帝崩御、後白河天皇践祚となり、白川前斎院(統子内親王)給により引き続き滝口となる。
鹿ヶ谷事件で捕らえられ解官されるが、基仲法師とともに許されたとも、佐渡に流されたとも云う。
やがて許さるも、治承三年再び解官。

【源成正(成雅)】
村上源氏。右大臣源顕房の孫、陸奥の守信雅の子。
永治元年(1141)年右少将、翌康治元年尾張守兼任。
翌二年、解任、院殿上の籍を抜かれる。
正月12日、山城守藤原頼輔と闘乱、剣で頼輔の額を傷つけ「諸大夫以上の品格の者、人を刃傷するはここん未だ知らず」と言われた(台記・本朝世紀)

しかし程なく還任。左中将まで登るも、保元の乱で崇徳上皇方につきやぶれて出家、解官。越後に流された
「知足院の入道寵し給ふ人」であり、「左の大臣(頼長)のゆかりに」【お察しください】(今鏡)。
応保年間に帰京、法皇の側近となる。
今様に通じ「梁塵秘抄口伝集」に「法師蓮浄」の名がある。
鹿ヶ谷事件では土肥実平が預り、常陸に流される

【中原基兼】
「兵範記 承安元年12月8日条」山城守中原基兼とある。
鹿ヶ谷事件で伯耆国に流された(平家物語)とある。
一方、「玉葉 文二三年9月29日条」には「前山城守基兼(元法皇の近臣、北面の下臈、凶悪の人なり)秀衡の許にあり(先年平相国入道、印の近臣らを戒むるの家、基兼その随一として奥州に流され了んぬ。その後秀衡に属き、今に彼の国を経廻するなり)」とある。

【ちなみに】
白山事件の発端となった西光殿の子らですが↓

【百錬抄 治承元(1177)年6月9日条】(改元は8月です)
「流人加賀守師高、右衛門尉師親、左兵衛尉平等、誅せらる。件の師高、尾張に在り。入道相国かの国の家人らに仰せて追討せしむ。相互に合戦、死者多し

師高の尾張配流は宣旨によるものでしたから、郎党を遣わして討伐するのは違法行為。私刑になります。

【平家物語】
「次男近藤判官師経をば、獄より引出でてせらる。其の弟左衛門師平、郎党三人をも同じう首を刎ねられけり」

というわけで殺害されましたが、阿波国に残る西光殿の六男 近藤七親家は逃げおおせました。
その後、義経が屋島の本営を目指した時に道案内したのが、この阿波の武士、近藤七親家だと言われています。
因果はめぐりますね…。

平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

成親殿の嫡男、成経殿は教盛大叔父上の女婿。 鹿ヶ谷事件でダメージを受けたのは小松家だけではありませんでした。

2012-10-28 18:52:28
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

一方、殿のご正室は八条院様の乳母子ですが、また鹿ヶ谷メンバーの一人、俊寛僧都の姉妹でもありました。

2012-10-28 18:50:09
平資盛実況なう @sukemori_jikkyo

成親殿はまた尺をとってゆっくりいたぶるわけですね、わかります

2012-10-28 18:46:55
平 資盛 @sukemori_t

愚管抄にみる「鹿ヶ谷事件」

2012-10-28 21:53:58
平 資盛 @sukemori_t

【愚管抄】 その後院中あれゆくやうにてすぐる程に院の男のをぼえにて 成親とて。信頼が時あやうかりし人流されたりしも。さようの時の師仲まで内侍所又かの請とりたりし小鈎など持て参りつつかへりて忠ある由申しかば。皆かやうの者は召かへされにける。この成親をことになのめならず御寵ありける。

2012-10-28 21:54:05
平 資盛 @sukemori_t

(略)康頼など云さるがうくるい者などにぎにぎと召つかひて。又法勝寺執行俊寛と云者僧都になしたびなどして有けるが。あまりに平家の世のままなるを羨むかにくむか。叡慮をいかに見けるにかして。

2012-10-28 21:56:18
平 資盛 @sukemori_t

東山辺に鹿の谷と云ところに静賢法印とて。法勝寺のさきの執行。信西が子の法師ありけるは蓮花王院の執行にて深く召つかひける。萬の事思ひしりて引いりつつ。まことの人にてありければこれを又院も平相國も用ひて。物など云あはせけるが。いささか山庄をつくりたりける所ヘ。御幸のなりなりしける。

2012-10-28 21:59:07
平 資盛 @sukemori_t

この閑所にて御幸の次に成親、西光、俊寛などあつまりて やうやうの議をしけると云事の聞へける。《これは一定の説はしらねども。》 *つまり、本当にあったのかどうかはわからないが、と。

2012-10-28 22:01:07
平 資盛 @sukemori_t

満仲が末孫に多田蔵人行綱と云し者を召て、用意して候へとて白しるしの料に宇治布卅段たびたりけるをもちて。平相國(略)つのくにの福原と云所に常はありける。それへもて行てかかる事こそ候へと告ければ其返事をばいいはで布ばかりを取てつぼにて焼すてて後、京に上りて安元三年六月二日かと

2012-10-28 22:04:44
平 資盛 @sukemori_t

西光法師を呼とりて八條の堂にてや竹にかけてひしひしと問ければ皆落にけり。白状書せて判せさせてやがて朱雀の大路に引いでて頸切てけり。 この日ハ山の座主明雲が方大衆西坂本までくだりてかく罷下りて侍たりけるよし云たりけり。世の中の人あきれまどひたる事にて侍き。

2012-10-28 22:07:36
平 資盛 @sukemori_t

この西光が頸きる前の日。成親の大納言をばよびて盛俊と云かある郎従盛國が子にてありき。それして抱だきて打ふせてひきしばりて部屋に押籠てけり。 *ここで盛国の子、盛俊が出てきます

2012-10-28 22:08:53
平 資盛 @sukemori_t

公卿の座に重盛と頼盛と居たりける所へ。何事にか召の候へば参て候とて。諒闇にて建春門院母后にてうせ給て後の事にてぞ。諒闇のなをしにて。よによくてきたりけり。出候はんにこまかに見参はせんとて有けるを。やがてかくしてければ重盛も思もよらであきれながらこめたる部屋のもとにゆきて

2012-10-28 22:12:13
平 資盛 @sukemori_t

小舅のむつびにや、この度も御命ばかりの事は申候はんずるとて云けり。さやうなりけるにや。備前國へやりて。七日ばかり物をくはせて後。さうなくよき酒をのませなどしてやがて死亡してけり。 俊寛と検非違使康頼とをば硫黄の嶋と云所へやりて。かしこにて又俊寛は死にけり。

2012-10-28 22:14:50
平 資盛 @sukemori_t

あ、最後ネタバレっちゃいましたねてへぺろ

2012-10-28 22:15:09

=====天台座主捕縛の上拷問さるるのこと=====

【百錬抄 4日条】
「天台座主明雲、使庁の使に付け、山の悪僧並びに白山の張本を責め召さる」

「山上の悪僧」「大衆の張本」の召進が目的であり、そのため座主明雲を検非違使が拘引し、厳しく取り調べました。
この時の検非違使が、鹿ヶ谷メンバー惟宗信房。

【玉葉 安元三年5月5日条】
「天台座主法務僧正明雲宜しく見任を解却し、職掌を停止すべし」
天台座主解任、法務の職掌停止の宣旨が出されています。

▽明雲は永万元年、六条天皇、仁安三年高倉天皇の代初めにあたり、護持僧に任じられましたが、それも解任されました。

*護持僧
→内裏清涼殿(初期は仁寿殿)の二間に宿直し、玉体の安泰を祈る僧。
後三条天皇の御代から三檀御修法の制が確立し、延暦寺・東寺・園城寺の僧がそれぞれ如意輪法、普賢延命法、不動法を勤めました。

▽こののちの天台座主には鳥羽天皇皇子、後白河法皇の弟 覚快法親王が補されました。
(そののち治承三年のクーデターで座主を辞任、明雲が再び座主に)

*8日、慈円(延暦寺なう)が兄九条兼実殿に伝えたところによると、この時期の延暦寺大衆は比較的平穏でした。

*13日頃、明雲は配流の可能性が強まると不穏な動きを見せます。
明雲が配流となれば、大衆は奪いに来るだろうという噂も京師に流れました。

*11日、明雲の所犯を挙げ、明法博士に罪名を勘申させています。

========おじゃる会議の中身==========

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      高倉帝里内裏 閑院
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この時閑院内裏の陣の座での僉議のため参内した11人
太政大臣   藤原師長(左大臣頼長嫡子)
右大臣    藤原兼実(九条殿)
中宮大夫   藤原隆季(家成卿嫡子)
中納言    藤原宗家
検非違使別当 藤原忠親
左兵衛督   藤原成範
権中納言   藤原実綱
参議     藤原朝方
参議 左中将 藤原実家
参議 右中将 藤原実守
右大弁    藤原長方