或る老軍人の回想

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 軍人になった理由は単純。飯が食えるから。父の顔なぞ知らず母は小学校に上がる前に流行病であっけなく逝った。親戚をたらい回しにされ厄介者扱い以外されたことなどない。母に似た顔とよく言われた。女に生まれていれば遊郭にでも売り飛ばされていただろうが生憎俺は男だ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 底辺を這いずり回る自分に、ある意味で軍人は最も似合いの仕事かもしれぬ。 汚れ仕事を厭わぬ為か、上官達の受けは良かった。色々な意味で。奴らは己の手が汚れることを嫌う。一部から夜伽の相手を命じられたこともあるが何とも思わなかった。暖かい寝床に飯があれば良い。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 手袋をつけ、のうのうと椅子に腰掛け指示を出す。腹立たしいとは思わない。生まれが違う、それだけのことだ。自分が汚れてると思ったことは一度もない。何故なら、俺は綺麗なものを見たことがなかったから。人間も、世の中も、どこか汚れているではないか。そう思っていたから。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 豊島という貴族出の青年が上官としてやってきた時は正直、煩わしさを感じた。 気さくで人当たりの良い好青年。年が近いのも気に入らなかった。愛され、大切にされて育てられてきた同世代の人間。己の持っていない物を見せつけられる気分。現実から目を背けられなくなる。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 立石は俺が嫌いだろう。ある日正面から言われたのには面食らった。異動させてやろうか。お前は他の奴の受けも良いし、どこでも歓迎してくれるだろう。嫌いではありません。自分でもこの言葉が口をついたことに驚いた。豊島も意外そうな顔をする。ただ。ただ？貴方は眩しい。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep そう言ってもきっと伝わらない。 …豊島さんと自分は年が近いのでついキツくなってしまうようで。お気を悪くされたのなら、申し訳ない。苦しい言い訳はどこまで通じていたか。そうか、嫌ってないならいいと豊島は笑う。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep俺の知らぬ所でお前の気に沿わぬ事をしていたのではないか、気になっていた。 気に沿わぬ事など、何も。ただ、貴方が綺麗なだけだ。俺が汚れているだけだ。この感情になんと名前を付ければ良いか俺自身分からぬだけだ。羨望や嫉妬、それだけでは説明できない。どこか痛い感情。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 豊島は俺の言葉に安心したらしい。 何かと声をかけてくるようになった。嫌いではないと言った手前、邪険には出来ない。それでも心苦しいことに変わりはない。この感情には相変わらず名前が付けられない。それでも、俺はこの上官が嫌いではなかった。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 豊島の家は確かに貴族だが、俺は後妻の子でな。肩身が狭い。海軍に入るのが通例だが、先妻の子達に邪魔をされた。そんな話を聞くとはなしに聞いた。他に話せる奴がいないのだ、許してくれ。どうして俺にそんなことを話すんです。そう俺が尋ねるといつもこう返された。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep お前は俺が嫌いだろう？ どういう意味かは何度聞いても教えてもらえない。 夜の闇の様に深い黒い瞳は何も語らずこちらを覗き込んでくる。嫌いではないと申し上げた筈ですが。そうだったか。そんなやり取りを何度繰り返したろう。大体、豊島が煙草に火をつけて話は終わる。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep ある非番の日に街を歩いていたら、感情にはあっさり名前が付いた。立石、と声をかけられ振り向いたそこに、美しい奥方を連れた豊島を見つけた時。奥方と豊島と手を繋いでいる少女を見た時。ああそうか、俺は貴方が欲しかったのだ。けれど手に入れられないのだ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 当たり前だ。あっさりと俺は思った。おこがましいにも、程がある。お美しい奥方で、羨ましい。それに、豊島さんのご自慢のお嬢さんにお会い出来て光栄です。声はおそらく震えてはいなかったろう。心の底からそう思えたからだ。その時の豊島の顔は見ていない。見たくなかった。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 戦場での豊島は作戦を指示する立場であるにも関わらず、前線に出たがるので 俺や他の部下達を困らせることが多かった。とにかく今回は危険だ、どこに地雷が埋めてあるか分からない。何人もの部下が説得に当たるが豊島はいつもの飄々とした笑顔でそれを跳ね除ける。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep お前らだけを危険な目に遭わせるわけにはいかんだろう。貴方がいらっしゃらなければ困るのは我々です。そんな平行線の様な話し合いがずっと続いていた。とうとう、歴戦の部下達が俺の所にやってきたのは作戦実行の前夜のことだった。お前、豊島殿を説得して来い。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 無茶を言わんで下さい、あなた方が出来なかったことを俺が出来るわけないでしょう。閉口する俺に、彼らは呆れ顔で言う。お前だから出来るんだ、お前をずっとこの部隊に置きたがったのは他ならぬ豊島殿だぞ。は？何故？俺達が知るか、とにかく行って来い。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 意味が分からず、豊島の元へ行くと彼は困った様に笑って煙草を吸っていた。貴方がとっとと折れて下されば俺が駆り出されることもなかったんですが。すまん、我侭に付き合わせて。全くです。俺の顔を立ててくれませんか。なあ立石。この戦は無意味なものと思わんか。唐突に何です。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep だってそうだろう、何人死んだ？今更何をおっしゃっているんです。そうだな、今更のことだ。ゆらりと、豊島の黒い瞳が揺れる。夜の闇に吸い込まれそうな錯覚を覚える。俺はな、立石。恐ろしいんだ。このままおめおめと、自分の部下だけを死なせて国に帰ることが。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep …今更、何を。分かっている、今更のことだ。俺は何度も戦を経験している筈なのに、今回ばかりは怖くなった。勝手なものだ。豊島は笑う。知っているか、今回の作戦はな、海軍からのごり押しだ。え？海から攻めたいから、俺達に山から攻撃して、海まで下ろして来いと言ってるんだ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep そんな無茶な。全くだ。何とかならんのですか。そう言って気付いた。おそらくこの人は何とかしようとして俺達に無茶を言っていたのだ。時間を稼ぎ交渉する為に。海軍には貴方のご兄弟がいらっしゃいますよね？あいつらは俺が邪魔なんだよ。絶句した。仕組まれたのだ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 豊島が部下を失っても、豊島自身が死んでも彼らは喜ぶということか。 なあ、立石、俺がそこまで嫌われてるのは構わん。だが、それだけの為にどれだけ血を流さねばならんのだ？たかが義理の弟憎さだけでこんな馬鹿なことをやる奴が軍を動かしているんだ。こんな怖いことはないぞ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep とにかく明日は俺も出る。そう言い切られてはそれ以上何も言えない。分かりました、ただし貴方は全員でお守りします。それじゃ意味がなかろうと豊島は呆れ顔をしたが自分が我侭を言っている自覚はあったのだろう。勝手にしろと苦笑した。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep 俺の部下どもは揃いも揃って馬鹿ばかりだ。上官殿に似たんです。そう言い返すと、豊島はふとこちらに夜の様な黒い瞳を向けた。なあ、立石。何ですか。お前、俺のことが嫌いだろう。……いいえ。何度繰り返した会話だろう。嫌っていないのなら、何だ。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep ただ、続きをするのがお互い恐ろしかった会話ではなかったろうか。互いに避け続けていた会話ではなかろうか。貴方を、お慕いしています。ただ、この会話は戦場でするのが相応しい会話だったのかもしれない。何故なら俺は戦場でのこの人を慕っているのだから。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep …そうか。はい。ありがとう、立石。はい。口付けを交わすわけでも体を重ねるわけでもない。そんなことを望むことなぞ、おこがましい。ただ、貴方の為に死ぬことが出来れば。それで、今までの自分が報われる。そう思った。まさか、貴方が同じことを考えてくれているなんて.。

ゆき。 @Yukilinus

@sasa_sep じーさん。じーさん！蓮見の声で夢から現実へ引き戻される。同じ戦場でも、ここは死人共がはびこる異質な世界。いくら呼んでも起きないから死んだかと思った。この街で出会ったこの若者はさらりととんでもないことを言う。阿呆、勝手に人を殺すな。拳骨を落としてやる。