岡崎藝術座『隣人ジミーの不在』に関して、桜井圭介×藤原ちから

岡崎藝術座『隣人ジミーの不在』に関して、桜井圭介さんと藤原ちからのつぶやきです。混乱を避けるため、11/5〜11/7未明までのふたりのツイートしか拾っていません。
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藤原ちから @pulfujiko

岡崎藝術座『隣人ジミーの不在』、ほんとうに素晴らしかった! ものを創作するパッションがこんなにも弾けてる舞台に遭遇できるなんて! なるほど世界(現実)は薄氷の上にあるのだなと感じた。しかし言葉は、一方通行かもしれないけれど、それでも走って、誰かに刺さる。続

2012-11-05 23:49:49
藤原ちから @pulfujiko

俳優3人(山縣太一、稲継美保、武谷公雄)がとてもとても良かった。太一くんの今までにないちょっと枯れた感じは魅力的。やっぱ力のある俳優ですな。稲継さんは実は表情豊かな女優さんなのですね。なんといってもエロティック。そして武谷さんの多芸すぎる道化ぶり……! やばい、笑。続

2012-11-06 00:04:45
藤原ちから @pulfujiko

演劇的言語が豊かだった。様々な動き。そして過去の作品群から流入してきたと思われる様々なモチーフやテーマ。なんの答えもない、寂寞とした世界だが、それでも人が生きている。この近未来は、決して良い世界ではないかもしれないが、それでも生きていく勇気をもらった。続

2012-11-06 00:09:42
藤原ちから @pulfujiko

いや、寂寞、と書いたけれども、カラフルなのだ。この多様な色たち。人種も階層も価値観も入り混じったこの世界には、希望はないかもしれないが、勇気はあった。続

2012-11-06 00:17:01
藤原ちから @pulfujiko

あといつものようにぶっきらぼうに見えるけど、実は戯曲が繊細で丁寧。スケールの大きなことを扱いながらも、日常に潜んでいる細やかな感情や声にならない声を掬い取っている。というか「創造」している。続

2012-11-06 00:21:25
藤原ちから @pulfujiko

『隣人ジミーの不在』は明日(火)まで。ぜひたくさんの人に観てほしいと切に願う。14時の回で最後だけど、会社や学校サボって観にいってほしいと言いたいくらい(自己責任で!)。もしかしたら、観ておくとあとで語り草として自慢できる(?)作品になるかも。

2012-11-06 00:23:47
藤原ちから @pulfujiko

(ちなみに舞台美術のアレは、勝手な想像だけど、神里雄大なりの「あの作品」への3年越しの痛烈なアンサーなのだと感じた。影がそっくり同じ。粋だね! しかしそのメッセージを堂々と発しても微塵も恥ずかしくない傑作だと思う。まさに、言いたいことは作品で返す。これを待ってたよ。)

2012-11-06 00:31:05
桜井圭介 @sakuraikeisuke

神里雄大『隣人ジミーの不在』。観てる間は面白かった(俳優たち、とりわけ武谷公雄が素晴らしい!)のだが、後で全部のシーン、出ていた要素でもって頭の中で組み建てなおしてみたら、かなーり貧しい「社会」になっていてゲンナリ。僕的にはこの「ドイヒー」はキャンプとして以外には楽しめない(続く

2012-11-06 22:14:03
桜井圭介 @sakuraikeisuke

(承前)ようするに、僕に視えている(あるいは、そうであって欲しい)この「世界」は、この『隣人ジミーの不在』のようなものではないのです。劇中「風が吹けば桶屋」の話が出てきたが、それで言えば、快快「りんご」のような世界認識のほうが、、、好きだ(正しいとまでは言わないけれど)。

2012-11-06 22:21:15
桜井圭介 @sakuraikeisuke

あと、「ダンスのような身体所作」をチェルフィッチュ的として(それより劣っているという意見もある)けど、あれはチェルフィッチュの「ダンスに見えなくもない身体所作」とは似て非なるもので、端的に「ダンス」なのである。で、「踊りながら会話する男女」という「演出」。『隣人ジミーの不在』

2012-11-06 22:48:23
藤原ちから @pulfujiko

桜井圭介さん @sakuraikeisuke の『隣人ジミーの不在』評は確かに鋭い部分を突いていると思っていて、その「貧しさ」は実はこれまでの岡崎藝術座の作品にもつねにつきまとってきた(象徴的なものとして『ヘアカットさん』におけるカラオケがあると思う)。ただ、続

2012-11-06 22:49:20
藤原ちから @pulfujiko

神里雄大はその括弧付きの「貧しさ」に開き直って全面肯定しているわけではないと思う。むしろその「貧しい」世界に投げ込まれてしまった不条理性をつねに身にまとってきた。その意味で彼らはつねにその世界にとってストレンジャーであり、そこで様々な異物=他者と出会う。そしてすれ違う。続

2012-11-06 22:51:44
藤原ちから @pulfujiko

実際、日本が何年後かにあの『隣人ジミーの不在』のような世界になる可能性はゼロではない。昨夜、寂寞、という言葉を使ったけれども、あのラスト、「ガイジン」とされたエキストラたちが去った後、沖縄の街のどこか、かなり歩かされてやっとたどり着いたその場所で佇む彼らは、では何人だったのか?続

2012-11-06 22:55:17
藤原ちから @pulfujiko

それはかなりシビアな世界認識だし、希望は描かれていない。だけどわたしはあのもはや何人か分からなくなっている存在であることに、こう言ってよければ「自由」を感じたのだった。自由というのはしかし責任や覚悟をともなう。混乱した世界を渡り歩いていくための自由。続

2012-11-06 22:57:10
藤原ちから @pulfujiko

それはシリアスだけど、けっしてつまらない世界ではないと思う。なんといっても、自由なのだから。その風通しの良さは、例えば音楽が鳴っているだけでただ俳優が立っているような意味不明のシーンにもあったと思う。そしてあの極彩色の球体。あれは不在の神か。様々な犠牲者か。それとも地球か。

2012-11-06 23:00:39
藤原ちから @pulfujiko

「アートとは、態度のことなのだ!」とあの「いのちの電話」のおっさんは叫んでたと思う(戯曲買ってくればよかった……売ってたの気づかなかった)。あのシーンはグサリと来た。この演劇に、人類を救済することはできないかもしれないが、たったひとりの誰かを救うことはできるかもしれないと思った。

2012-11-06 23:07:50
桜井圭介 @sakuraikeisuke

.@pulfujiko 『ヘアカットさん』(最高作!)の「カラオケしかない」という「貧しさ」の場合の、その事実性への共感、そのままで希望へ反転する可能性、と比べて、(続く)

2012-11-06 23:14:22
桜井圭介 @sakuraikeisuke

.@pulfujiko (続き)『隣人ジミー』や『レッド』など「近未来ファンタジー」の場合、描かれることの「比喩性」「寓話性」が、僕にはどうにも「おもわせぶり」に感じられます。妄想、虚構としてはアリだけど、それには乗れないなー、ピンとこないな(鈍感かも俺)、という。

2012-11-06 23:16:55
桜井圭介 @sakuraikeisuke

.@pulfujiko それと、311以後、演劇でも「語り得ぬものを如何に語るか」ってことで、「寓話」みたいな仮構が発想され始めたように見えます(チェル『現在地』も)。岡田君の場合は「リアル」の飽和、みたいな岡田演劇内の事情があったわけだけど、一般に「寓話」は間接性の表現で(続く

2012-11-06 23:29:23
桜井圭介 @sakuraikeisuke

.@pulfujiko その寓話の「間接性」をどう考えるか?ですが、僕には「弱点」に感じられる。ところが、先日のイランの『1月8日、君はどこにいた?』が、扱いたい「事件」を別の何かに置き換えるのではなく、事件と無関係の話によって、その事件が起きてしまう社会的状況を浮彫りにする(続

2012-11-06 23:43:57
桜井圭介 @sakuraikeisuke

.@pulfujiko (続き)浮き彫りにすることに成功していた。一見、非常に「下世話」な、通俗サスペンス劇にも見えて、実は非常に切羽詰まった社会演劇になっていた。こういう発想は、今の日本の演劇にはなかったと思います。さて、お腹もすいたのでwいったんこの辺にさせてください。では又

2012-11-06 23:51:07
藤原ちから @pulfujiko

さて、桜井さんが食事に行ったらしいので、笑、今度はわたしのターンをやって、今夜のところは終わりかな、と思っています。むしろ継続的に時間をかけて考えたい幾つかのトピックが出てきた気もしますね。とりあえず、生姜湯など入れて、ひと息ついてからにします。

2012-11-07 00:12:35
藤原ちから @pulfujiko

なるほど「寓話性」というのは面白い切り口ですね。ただ、昨年の『レッドと黒の膨張する半球体』と今回の『隣人ジミーの不在』では、寓話性の質が違っていると感じるので、そこはまず峻別したいと思います。今作は確かに思わせぶりなセリフが幾つかあって、それが「滅び」を象徴していますが、続

2012-11-07 00:40:42
藤原ちから @pulfujiko

前作ほどメタフォリカルではなく、あくまで物語の「外部」を感じさせるための仕掛けだったと思います。オイディプスの近親相姦の話も、寓話というよりむしろ「神話」的な結構を導入しただけであって、それがあの「もう1回、今度は俺たちの子供をつくろう!」という切ない反復へと、続

2012-11-07 00:44:50
藤原ちから @pulfujiko

続いていたのではないでしょうか。演劇では、1人で何人もの役を演じることがあるわけですし、それは劇中の卓上のスプーンやらコーヒーカップやらの交換に示唆されるように、交換可能であったりもするわけです。その、自分が誰だか分からない、どこに定位していいか分からない、という状態で、続

2012-11-07 00:46:22