- sukemori_t
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=========================== よっつね元服の地
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【源義経元服の地】 ~滋賀県竜王町~ 道の駅竜王かがみの里のすぐそばに義経縁の地が点在。 ▽義経元服池▽烏帽子掛け松▽義経宿泊館など http://t.co/XLTIJeDS http://t.co/mbv4VhaB http://t.co/LjiP8nx4
2012-11-05 17:07:35【義経元服池】 ・道の駅の前の道路を渡ってすぐです。 http://t.co/6W2cYOZQ http://t.co/3Icadgl6 http://t.co/kNzrGC7f
2012-11-05 17:11:10【鏡神社・義経烏帽子掛の松】元服池の東にあります ・元服の際、当時一般的だった平家の右折れでなく、あえて源氏の左折れの烏帽子を注文したといいます。 http://t.co/SpQROiUk http://t.co/wlJs6FHT http://t.co/gm749mUW
2012-11-05 17:09:26【平家終焉の地】~滋賀県野洲市大篠原~義経元服の地のほど近くに、壇ノ浦で捕らえられた宗盛叔父上・清宗殿親子が、鎌倉から京に返される途中、この斬首された地があります。 http://t.co/qwGgBpBj http://t.co/kXoH7s9I
2012-11-05 17:14:32**===========================
絵巻に見る成親殿&俊寛僧都
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上賀茂神社に左大将の位を祈願する成親殿。 (平家物語画帖) 邪法な祈願だったためか、落雷炎上(|| ゜Д゜) http://t.co/kU8bbiuw
2012-11-05 19:26:51石清水八幡宮の神のお使いの鳩が三羽、互いに喰い合って死ぬとか、普通その時点でおかしいって思うよね!ったく、伯父上ときた日には…(;´Д`)
2012-10-28 19:23:59===========================
大隅国に残る源平関連史跡
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大隅国霧島市でゲトした平家物語ゆかりの地のパンフ。 俊寛、そして成親殿の嫡子成経殿がこのあたりの港から鬼界が島に向かったらしいです。 http://t.co/6cWMCRFx http://t.co/2PQd46JW
2012-11-05 19:58:31召喚☓ 召還 ○ RT @sukemori_t そうそう、明雲殿ですが、百錬抄治承元年6月5日条に「流人明雲、召し返すべきの由宣下」とあります。 西光らの讒言が明らかとなり、6月5日に召喚が宣下されました。しかし帰京は許されなかったようです。
2012-11-04 23:29:47【愚管抄 治承二年8月25日条】「前座主明雲、去る比上洛し、静憲僧都房に寄宿す。法皇大いに怒る」とあります。 この後治承三年のクーデター後に天台座主還補、護持僧にも任じられます。
2012-11-04 23:31:58~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
西光殿の即刻斬首に比べ、成親殿が1ヶ月ほど伸ばされたのは、ひとつにはこのお二人の地位の差もあります。成親殿は正二位権大納言。これだけの地位にある方を都で斬首はさすがに無理でした。 配流の後、朝議で解官が決まり、そののちの刑執行と、一応段取りは経てます。
2012-11-05 01:31:25【愚管抄 巻五】「成親は家成中納言が子にて、ふようの若殿上人にてありけるが、信頼にぐ(具)せられてありける。ふかゝるべき者ならねば、とがもとなかりけり」 *この場合の「ふよう」は「武勇」「不要(不用)」「芙蓉」などと解釈されています。 *平家物語には「成親と云ふ無用の徒者」と。
2012-11-05 01:47:09「徒者」とは「いたずらもの=役立たず」といった意味です。 「いたずらもの」については、平家物語には「夜に余されたる程の徒者」という表現もあります。 これは世間から見放された落伍者、無用者、はみ出し者といった意味あいでしょうか。
2012-11-05 01:48:44成親殿の場合、正式な配流ではないので、流罪の規定にはない国に流されました。 「遠国」の規定→ ▽五畿七道 *東海=相模以東 *東山=上野以東 *北陸=越後以北 *山陰=石見以西 *山陽=安芸以西 ▽西海=全て ▽南海=伊予(南海道には淡路、紀伊も含まれます)
2012-11-05 01:52:41南海電車の「南海」ですね。 のちに、兄上が「南海を目指して屋島を逃走」と某氏のぶろぐにかかれるのですが、この場合も南の海を目指してれっつごー!ではありませんw
2012-11-05 01:54:21成親殿を備前国まで護送したのは追立ての領送使ではなく、祖父上の郎党・難波次郎経遠でした。平治の乱の際、父上の配下として待賢門で戦いののち、悪源太を捕らえ六条河原で斬ったのは、弟の三郎経房。 さらに、殿下乗合事件で直接手を下さいたものとして、難波、瀬尾の名が挙げられています。
2012-11-05 02:09:28