織田軍勉強記

私による私のための織田軍勉強記(笑) 知ってる話もそうでない話も脱線しながら進めてます。 織田軍に限り、リクエストを受け付けております。 (誤字は大目に見てくださいww)
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かおり@休養中 @odaXbutterfly

『永禄6年諸役人付』を見ると、「足軽衆」の中に「明智」の名が見出だせる。これはおそらく光秀であろう。 #織田軍勉強記

2012-11-19 20:33:37
かおり@休養中 @odaXbutterfly

しかし、この史料は、長節子氏の研究によると、その記事のある後半部分は永禄10年(1567)頃の義昭の臣ということであり(「所謂『永禄6年諸役人付』について」)、光秀が義輝時代からの幕臣だった証拠にはならない。 #織田軍勉強記

2012-11-19 20:33:54
かおり@休養中 @odaXbutterfly

とはいうものの、後の光秀の京都での活躍ぶりを見ると、一時的にしろ幕府と関係を持っていたと考えるのが自然である。因みに、この「足軽」というのはただの歩兵というわけではなく、将軍の旗本というべき役の意味である。 #織田軍勉強記

2012-11-19 20:39:07
かおり@休養中 @odaXbutterfly

『細川家記』などには、朝倉義景に仕えた後、信長に転仕とあるが、信長に仕える前に越前の朝倉氏の下にいたこと、そこで義昭や細川藤孝らと知り合ったということは概ね正しいと思われる。 #織田軍勉強記

2012-11-19 20:48:12
かおり@休養中 @odaXbutterfly

では、光秀が信長に仕えた時期はいつ頃なのであろうか。永禄7年9月15日付で、光秀が丹羽長秀とともに常在寺に寄進した寺領の全納等を許した連署状の写しがあり(常在寺文書)、奥野高廣氏は、これを光秀発給文書の初見として扱っている(同氏「明智光秀の初舞台」)。 #織田軍勉強記

2012-11-19 21:01:08
かおり@休養中 @odaXbutterfly

しかし、この文書の署名が「惟任日向守」になっていることといい、この一通のみが突出して早期に出現していることといい、大いに疑問がある。 #織田軍勉強記

2012-11-19 21:08:34
かおり@休養中 @odaXbutterfly

『公記』にも、信長の入京までは光秀の名は全く現れず、これについては、著者太田牛一が故意に光秀の名を削ったものとも思われない。 #織田軍勉強記

2012-11-19 21:21:10
かおり@休養中 @odaXbutterfly

『細川家記』などに載っている、義昭上洛の仲介をしたという話をするにしても、光秀が信長に仕えたのは、永禄11年の信長上洛の直前だったのではなかろうか。 #織田軍勉強記

2012-11-19 21:28:57
かおり@休養中 @odaXbutterfly

確かな光秀の初舞台は、永禄11年11月15日、細川藤孝らとともに連歌会に連なっている場面である(土田将夫『続細川幽斎の研究』所収史料)。また、戦における光秀の初見は、翌年1月5日、三好三人衆らと六条本圀寺で戦った時である(公記)。 #織田軍勉強記

2012-11-19 21:38:21
かおり@休養中 @odaXbutterfly

この時、本圀寺に籠って将軍義昭を守った人々は、幕臣細川藤賢・野村越中守のほか、津田左馬允・同左近ら尾張衆、赤座七郎右衛門・森弥五八ら美濃衆、山県源内・宇野弥七ら若狭衆といった種々雑多な集団である(公記)。 #織田軍勉強記

2012-11-19 21:43:29
かおり@休養中 @odaXbutterfly

この中にあって光秀の立場は、幕臣だったのか、美濃衆だったのか明確ではない。 #織田軍勉強記

2012-11-19 21:44:35
かおり@休養中 @odaXbutterfly

〔義昭・信長両方に仕えて〕 以後も光秀は、京に残って政務に携わっている。組んで仕事をしているものは、村井貞勝・木下秀吉・丹羽長秀・中川重政・武井夕庵といった信長の家臣たちのほか、朝山日乗と一緒のこともある。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:08:44
かおり@休養中 @odaXbutterfly

特に秀吉・長秀・重政と四人でチームを組んで、政務にあたっていることが多い。もう一つ、佐久間信盛・柴田勝家・蜂谷頼隆・森可成・坂井政尚の五人チームがある。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:18:14
かおり@休養中 @odaXbutterfly

佐久間たちのチームは、永禄12年4月中旬で仕事を終えており、光秀たちのチームが引き継いで京都・畿内の政務にあたった様子である。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:19:22
かおり@休養中 @odaXbutterfly

ともかく、光秀が彼ら信長の有力武将と同等に扱われていることが注目される。光秀を含む四人の中で特に目を引くものは、禁裏御領所である丹波山国荘に対する、丹波国人宇津頼重の違乱を停止させていることである(立入家所持記・立入文書)。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:25:48
かおり@休養中 @odaXbutterfly

このように、光秀が彼ら入京後の信長に臣従していることは明らかだが、一方、彼は幕臣の性格も合わせ持っていた。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:28:14
かおり@休養中 @odaXbutterfly

(永禄12年)11月20日付で、光秀は本願寺光佐(顕如)からの書状を得たが、この書の中で光秀は、本願寺が阿波の三好党への合力・助言は一切していない旨、弁明を受け、さらに将軍義昭に取り成すことを頼まれている(顕如書)。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:33:09
かおり@休養中 @odaXbutterfly

また、翌年1月23日、光秀は日乗と連名で、信長より5ヵ条から成る条書を受けている(成貴堂文庫文書)。この文書は、御内書には必ずの副状を付けることなど、義昭に対する信長の要求を列記したもので、義昭自身が袖に刻印を捺して承認している。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:38:32
かおり@休養中 @odaXbutterfly

こうした内容の文書が、日乗と光秀に宛てられているということは、光秀も日乗と同じく、信長と義昭との間で中立を保てる立場にあったということであろう。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:41:32
かおり@休養中 @odaXbutterfly

元亀元年(1570)4月10日付で、東寺の全識が幕府奉行衆に宛てた訴状によると、光秀はそれ以前に、将軍より一識を宛行われていたらしい(東寺百合文書)。また、御述するが、北山城の諸士が光秀に従っていたことも、将軍の任命によるものであろう。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:50:14
かおり@休養中 @odaXbutterfly

このような光秀の幕臣としての性格は、元亀2年中期頃まで見られる。(元亀2年)7月5日、幕臣上野秀政と連名で、信長より山城大住荘の農民の押妨の命を受けたり(曇華院文書)、(同年)7月30日三好為三に宛てた義昭の安堵状に副状を発給したりという活動がある(狩野文書)。 #織田軍勉強記

2012-11-21 21:59:00
かおり@休養中 @odaXbutterfly

同3年4月に、信長軍と将軍の軍が共々河内に出陣した時、『年代記』では、まだ光秀を「公方衆」の中に入れている。 #織田軍勉強記

2012-11-21 22:02:02
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