渡邊芳之先生@ynabe39の「自分がやっていることについては誰だって「この程度ではいじめとは言えない」「これは叩きすぎではない」というに決まっているのだ。」

「程度の問題であるだけ」の「程度」は誰がどうやって決めるのか、「叩き過ぎはいけないというだけ」の「叩きすぎかどうか」は誰がどうやって決めるのか、もっといえばそれを「被害者以外の人」が決めることをどう考えるのか
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渡邊芳之 @ynabe39

たしかに構造としては同じですね。 RT @star_orihime: あと「これは虐待ではなく躾だ」も加えといてください。

2012-11-23 19:34:37
渡邊芳之 @ynabe39

50年前にはなんの問題もなく「しつけ」だったことが,いま同じことをやったら「虐待」とされることはたくさんあるだろうな。そこでも「社会的容認の基準の変化」が「虐待と言われるものと言われないものの区別」を生み出しているわけだ。

2012-11-23 19:36:00
渡邊芳之 @ynabe39

そして「家庭」はひとつの「社会」だし,学校のクラスや職場の部署なども「素社会」で,そこにはそれぞれの「社会的容認の基準」があるわけです。だから「家族は誰も虐待だと思っていなかった」「クラスの誰もそれをいじめとは認識していなかった」ということが起きる。

2012-11-23 19:40:11
渡邊芳之 @ynabe39

島本さんが好きなのは私もさすがに怖くて言えないことを言ってくれるところ。

2012-11-23 19:40:47
渡邊芳之 @ynabe39

さっきのツイートの「素社会」というのは単なるタイポなんだけど,なんか意味があるようにも読めるw。

2012-11-23 19:44:01
渡邊芳之 @ynabe39

行動そのものを罰することはできないから,その「象徴」として個人を罰するのだと思います。RT @powerpc970: 行為と人物を分けるべきなら、人物を罰するのは何故でしょうか?

2012-11-23 19:45:03
渡邊芳之 @ynabe39

まさに先ほどどなたかがおっしゃったように「戦争で人を殺すのは殺人とはいわない」のと同じ話なんだなあ。

2012-11-23 19:48:26
渡邊芳之 @ynabe39

私は前者だと考えます。心理学者はだいたいそう考えると思います。 RT @powerpc970: 人物は行為の結果を表す物ですか?私は人物の主観的動作が行為だとしか思えないのですが。

2012-11-23 19:51:41
渡邊芳之 @ynabe39

つまり「国や社会を守るために戦っている人を人殺しだと言う」のと同じことを私が言ってるということになるのか。しかし「人を殺している」こと自体も否定することはできないだろうとも思うし,だからこそ反戦運動というのがある。

2012-11-23 19:57:04
渡邊芳之 @ynabe39

まさにそのことを私むかし論文に書いてます。(pdf注意) http://t.co/SeEcSbkB @ginga_1323

2012-11-23 20:04:07
渡邊芳之 @ynabe39

心理学者の少なくとも3割くらいは「どの選択肢を選ぶかは環境の関数である」と考えます。私もそうです。 RT @photonka: …心神喪失や精神異常でなければ、人は行動に支配されるわけでなくて、人間には、やる、やらない、という選択肢があります。

2012-11-23 20:11:27
渡邊芳之 @ynabe39

法学の人格主義には私のような心理学者の多くは学説的には疑問を持っていますが,「行動を罰すること」ができない以上そうするしかないのだろうと思います。 RT @powerpc970: 行為の主体が人だから人を罰するのです。そうでないという法学者が居たら是非紹介してください。

2012-11-23 20:18:45
渡邊芳之 @ynabe39

また,その「しかたのないやり方」の問題点の補償として用意されているのが情状酌量であろうと思います。 @powerpc970

2012-11-23 20:19:50
渡邊芳之 @ynabe39

人間行動についての社会一般の常識とまったく違うことを学説として考えている専門家がいることを知ってもらうのはよいことだと思う。

2012-11-23 20:20:36
渡邊芳之 @ynabe39

現在の行動を決めているのは幼少期など過去の環境よりも現在の環境です。ちなみにそういう「初期体験説」には私は疑問を持っています。 RT @photonka: …幼い頃に家庭内で虐待を受けた(環境)という人は、大きくなると暴力的な犯罪を犯す(行動)というケースが多いと考える…

2012-11-23 20:22:21
渡邊芳之 @ynabe39

つまり「犯罪の原因が(犯罪者にだけでなく)少なくとも部分的には状況にある場合」を法制度も想定しているわけですね。 RT @powerpc970: 情状酌量は悪の度合いを犯罪者が置かれた状況を勘案して減するもの。となると仮に刑罰対象が行為とする事が可能でも必要となる考えでは?

2012-11-23 20:32:19
渡邊芳之 @ynabe39

ただおそらく勘違いされているのは私が「行動を罰することはできない」と言ったことの意味です。私が言っているのは「行動を死刑にしたり行動を牢屋に入れることなんてできないよね」という意味です。 @powerpc970

2012-11-23 20:34:05
渡邊芳之 @ynabe39

「あなたがわからないこと」に私が説明をするのは義務でもなんでもなく「サービス」です。サービスを行なうかどうかはこちらが決めます。

2012-11-23 22:30:57
渡邊芳之 @ynabe39

別の言い方をすれば,自分の意見を発表しているのだから「反応」や「批判」があるのは当然だと私も思っていますが,その「反応」や「批判」のなかにはまともに取り合う価値のないものもたくさんあって,そういったものにはいちいち反応しないということです。@powerpc970

2012-11-23 22:36:24
渡邊芳之 @ynabe39

例によって「自分と考えが違うのは自分の知っていることを知らないから,あるいは自分が考えていることを考えていないから」という主張。自分より多くを知っていて,自分より多くを考えているから自分と考えが違う可能性だってあるだろう。

2012-11-23 22:39:14
渡邊芳之 @ynabe39

私の興味はその「普遍的妥当性」がどこにあるかではなく,それを「誰がなにに基づいて決めるのか」です。RT @powerpc970: 『普遍的妥当性が「泣く子供や親」と「さかもと未明」の中間にあるかのような詭弁』は世の中でも結構見かける。その多くは「中立的立場」を装っている。

2012-11-23 22:50:03
渡邊芳之 @ynabe39

「変なことよりいいことをいうことの方が圧倒的に多い」(そう言ってくださるのはとてもありがたいが)と思っている人が「変なこと」を言っていると感じられる時というのは「自分自身の考えをちょっと疑ってみる」チャンスではあると思います。

2012-11-24 07:31:11
渡邊芳之 @ynabe39

まあもちろん「日頃いいことを言っている人」が実際に「とんでもなく変なことを言う」ということは,とくに編集が介在しないネットではよくあることで,むしろそれがネットの面白さでもある。たとえば江川紹子さんみたいな著名人でもそういうことがあるし。

2012-11-24 07:37:03
渡邊芳之 @ynabe39

「日頃いいことを言っているからこそ変なことを言うのは許せない」と考えてくださるのならありがたく甘受します。

2012-11-24 07:37:54
渡邊芳之 @ynabe39

それってけっこうあるよ。東海アマさんだってときどきいいことを言うもの。ただ最近は残念ながらアマさんの「いい発言」は少なくなっちゃったなあ。

2012-11-24 07:40:20
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