gnsi_ismrによる科学コミュニケーションについての重要な呟き

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rmsi_isng @rmsi_isng

科学的に正しくないからやめるべきだ、という主張がどこか危ういのは、「やめるべきこと」と「科学的に正しくないこと」が「たまたま」一致したからよいようなものの、そうでなかったらどうなるのか、という不安を払拭できないからである。

2013-02-04 07:58:08
rmsi_isng @rmsi_isng

実は一致しない研究成果も出ていて、政治的正しさへの配慮から公にされていないだけではないか、とか、そもそも一致することを目的とした研究しかなされていないのではないか、という疑念が生じかねない。

2013-02-04 08:01:28
rmsi_isng @rmsi_isng

これは、「やめるべきこと」が「たまたま」自分の価値観と一致してる時はさして気にならない(むしろ積極的に支持したくなる)が、そうでない時には非常に気になるだろう。つまり、(研究者ではない立場の)我々の科学に対する支持自体、そういった危うさを孕んでいる。

2013-02-04 08:04:18
rmsi_isng @rmsi_isng

科学に基づく判断の割合を減ずるのではなく、実際の科学的手続きの瑕疵を問い続けることは、「科学的に誠実な態度」でもありうるが、(どの研究成果をもたらす手続きの瑕疵を問うかという選択は恣意的なので)「「自らの価値観に合致する科学的成果」の可能性を擁護しようとする態度」にもなりうる。

2013-02-04 08:44:02
rmsi_isng @rmsi_isng

そもそも、科学的研究成果は極めて限定された条件下での、かつ多くの仮定に基づいた結論なので、それを無条件に一般化することは「科学的」でさえ無いのだけれども。

2013-02-04 08:51:18
rmsi_isng @rmsi_isng

もちろん、そのような制約条件を理解しながらも、現時点での妥当な結論の「一部」としてそれを採用する、という「判断」は十分あり得る。しかし、その際にはすでに科学ではなく「総合的判断」がなされている。

2013-02-04 08:56:54
rmsi_isng @rmsi_isng

一般には、過大な問題を抱え、手持ちの解決手段が乏しい時、特定の解決手段に過剰な期待を寄せ、その解決手段の瑕疵を看過する、という事態が生じがち。その場合に期待の過剰さや解決手段の瑕疵を批判するだけではどうしようもなく、問題の過大さ、解決手段の乏しさのいずれかを手当てするしか無い。

2013-02-04 09:17:37