一日一年表①~大正デモクラシーと大戦景気(第一次世界大戦)

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Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

今日から近代100年史として、一日一年表を始めます。 日本がどのような流れで戦争に向かったか、戦後、どのように経済成長をしたかを振り返り、今後の日本を考えるヒントにします。

2012-06-05 13:18:11
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

今から100年前の1912年は大正元年。12月、当時、じわじわと政治への影響力を強めていた軍部が起こした上原陸相事件によって、上原勇作が辞職、西園寺内閣が総辞職に追い込まれ、桂太郎内閣が発足となる。しかし、これをきっかけに始まったのが第一次護憲運動。

2012-06-05 13:19:28
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

「憲政の神様」と言われた尾崎行雄(東京市長)はこの年、ワシントン市に三千本の桜の樹を贈っている。その他、日露戦争で活躍した乃木希典が夫人とともに自宅で殉死。スポーツではストックホルムで行われた夏季オリンピックに日本が初参加。 そして、大西洋にてタイタニック号が沈没。

2012-06-05 13:20:33
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

東京は雨もあがり、晴れ間がでてきました。今日の一日一年表です。 ~1913年~ 前年発足した桂内閣が立憲的とは言えない手続きで組織された上、 桂首相が「軍部大臣現役武官制(現役軍人が軍部大臣になる制度)は憲政の運用に支障はない」と答弁し、議会内の護憲派達が抗議運動を始める。

2012-06-06 13:53:49
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

その運動が全国に広がり、「憲政の神様」と言われた尾崎行雄が弾劾演説を行い、桂内閣は総辞職。そして、その後の首相、山本権兵衛は軍部大臣現役武官制を廃止、陸相だった木越安綱も軍部の意向に逆らい山本を支持。

2012-06-06 13:55:24
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

これらの大正政変は「非立憲的である」という言論によって内閣を倒すことも可能であることを証明し、短いながらも輝かしい大正デモクラシー期の幕が切って落とされた。 ~近現代100年史~

2012-06-06 13:56:03
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

今日の一日一年表です。~1914年~サラエボ事件をきっかけに第一次世界大戦開戦。ヨーロッパが主戦場だったため、日本に直接的な戦災はほとんど及ばなかったが、日本は日英同盟の関係からドイツ戦に劣勢を強いられていたイギリス政府からの要請を受け参戦。

2012-06-07 16:38:12
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

大隈重信首相は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけず、緊急会議にて要請から36時間後には参戦の方針を決定。ドイツへの宣戦を布告した。緊急会議の中で加藤高明外務大臣は「これは欧米列強がアジアに目を向けられないうちに、日本の権益を拡大するチャンスだ」と考え参戦を主張。

2012-06-07 16:39:31
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

軍部でなく政府主導での参戦となった対独戦は、あくまで日英同盟を前面に出し、中国の山東半島に軍を上陸。ドイツの東洋艦隊の拠点である青島(チンタオ)を攻略することに成功する。

2012-06-07 16:40:15
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

また、この年は東京駅が開業。第二次大戦の戦災で2階建に規模が縮小したものを、戦前の3階建の姿に復元するため、今年の10月まで工事の真っ最中。 創建時、現在、復原後の写真はこちらhttp://t.co/AX1jkWTR ~近現代100年史~

2012-06-07 16:42:05
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

東京は晴れていますが、梅雨が迫ってきていますね。本日の一日一年表です。 ~1915年(大正4年)~前年に占領した旧ドイツ領、青島からの撤退を求めた中国(袁世凱政権)に対し、日本はその利益の代償を求めた案として「21カ条の要求」を行った。

2012-06-08 14:11:20
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

大戦のさなかに戦後処理を進めたことは、世界に悪い印象を与え、中国人の反感も大いに高めた。しかし、このような条約は珍しくなく、イギリス、フランス、ロシアは、要求の内容は妥当であるとして結局は干渉を控えている。

2012-06-08 14:12:18
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

中国の国民政府も一度は応じ、一件落着となるはずだった。そこへ猛烈な非難を繰り広げたのがアメリカであった。アメリカ政府は中国支援を表明し、アメリカ系の新聞も、こぞって日本を非難、21もの不当な要求をどさくさに紛れて中国に認めさせたかのような印象を、世界中に植え付けた。

2012-06-08 14:14:25
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

また、この年の8月、第1回全国高等学校野球選手権大会が甲子園ではなく、大阪府の豊中球場で開催。10チームの参加で京都二中が優勝。~近現代100年史~

2012-06-08 14:16:15
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

東京は朝から雨。関東も本日梅雨入りしましたね。明日はNF孔球会のため晴れてほしいところです。さて、今日の一日一年表です。 ~1916年(大正5年)~吉野作造が民"本"主義を説く。政治の目的を民衆の福利におき、政策決定は民衆の意向によるべきとして、⇒

2012-06-09 12:40:16
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

政党内閣制と普通選挙の実現を説き、大正デモクラシーの指導理論となった。 世界は第一次大戦の真っ最中。ライト兄弟の有人動力飛行(1903年)から20年余り、この大戦から本格的に軍用機が実用化される。⇒

2012-06-09 12:42:07
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

最初は偵察機として使用され、すぐにピストルを撃ち合うようになり、武器自体も機関銃へと進化して戦闘機が生まれた。また敵地上空で爆弾を落とす爆撃機も誕生した。この年、シアトルでボーイング社が創業しているが、パイロット養成用に練習機モデルを大量生産し航空機メーカーとしての地位を築いた。

2012-06-09 12:44:09
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった夏目漱石が没したのもこの年。~近現代100年史~

2012-06-09 12:44:38
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

今日は千葉方面に出向きましたが、予報の曇、雨に関わらず、日中は良く晴れてくれました。さて、本日の一日一年表です。~1917年(大正6年)~この年になると第一次大戦を終結に導く二つの出来事があった。アメリカの参戦と革命の嵐に見舞われていたロシアの撤退である。

2012-06-10 18:31:12
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

アメリカは、日本の中国進出に対する警戒から、早期に大戦を終結させたいと目論み、一方のロシアは、日露戦争で敗北して以来、ロマノフ王朝の権威はガタ落ち、第一次大戦でドイツに敗北したことが引き金となって、マルクス主義者レーニンの主導の下、ロシア革命が起きる。

2012-06-10 18:32:08
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

かくしてロシアはソビエト連邦となり、権力を一手に握ったロシア共産党は、ロマノフ王朝の一族を全て処刑したほか、共産主義に賛同していないと見なした人民を、数年間にわたって殺害した。このような残虐な革命の基盤となったマルクス主義とは「貧富の差を憎み、私有財産を否定する思想」であるが、⇒

2012-06-10 18:32:59
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

貧富の差と言ってもそういう実態はずっとあったわけで、資本主義経済が確立し始め、人々がそれを意識するようになったということである。 また、この年、サッカー日本代表にとって初の国際試合となった極東選手権で、東京高等師範学校(現在の筑波大学)が日本代表として中国と対戦し0-5で敗れた。

2012-06-10 18:34:49
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

その他、東京湾で「大正六年の大津波」と呼ばれる高潮水害が発生。台風が東京湾接近時の満潮時刻と重なり、東京の佃、月島、築地、品川、深川地区が浸水したほか、市川、船橋など千葉県の東京湾岸一帯に被害をし多くの犠牲者を出した。~近現代100年史~

2012-06-10 18:35:39
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

本日の一日一年表です。~1918年(大正7年)~ドイツ軍と連合国軍との間の休戦協定が成立し、第一次世界大戦終結。大戦はヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つの帝国が分解した。

2012-06-11 22:35:34
Keiichi Taniai|スポーツ @k_taniey

国内では初の政党内閣、大正デモクラシーの発展に大いに貢献した原敬首相が誕生。かねてより軍部の圧力を憂慮してきた原は、できるだけ長く政権を維持し、好機を待つしかないと考え、ひとまず軍部に妥協、続行中の第一次大戦で生じる財政的な余裕をもとに、一時は軍事予算を増額した。

2012-06-11 22:36:54