【コラム】世界に愛が溢れるバレンタインの日に、なぜか「死生観」について熱く語ってみた
- tkatsumi06j
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即身成仏と法難、どちらが司祭の行動に近いか
.@tkatsumi06j 信教の自由があるように、何かへ個人的主観を抱く自体は私がどうこう言う事ではありませんね。私も東西で殉教の理念は違うと思いますよ「相対的に即身仏と法難、どちらの現象の方がバレンタインの事例に近しいか」……という話をしただけですから。
2013-02-15 13:06:27@mikagerobeppu なるほど、相対的にどちらであるかということは、私にはさほど重要なことではありません。区別する要素は、行為の尊さや、そこに教義に殉ずる明確な覚悟があり、結果を承知しているということの3点だと思っています。勿論、行為は後世によって評価される訳ですけどね。
2013-02-15 13:11:02@mikagerobeppu ありがとうございました。何かに詳しくなくても好きに喋れるのが、ツイッターのような言論界の自由なところですね。詳しいお話ありがとうございました。以上のやりとりもリアルタイムで追加してまとめさせていただきます。
2013-02-15 13:14:22.@tkatsumi06j その通りですね。もちろん自分の発言に責任が生じるのはリアルでもネットでも同じですが。 それでは。
2013-02-15 13:17:42@mikagerobeppu はい。その意味で全記録をわかりやすい形で残させていただきました。貴重な機会をありがとうございました。また無駄と思える議論にお時間をとってしまい申し訳ないです。私には価値ある議論でした。ありがとうございました。
2013-02-15 13:22:39やりとりを終えての感想
思わぬ展開になりましたが、いいインプットいただきました。議論が意味をなすかなさないかは、これも個人の受け取り方次第であり、何も生み出さない議論から価値を見いだすセレンディピティが働けば、価値あるものにも思えるもの。私は、議論が平行線でも価値はあったと思っている。
2013-02-15 13:20:29言葉を間違えていた。「主体的」でなくて「能動的」だった。 activeとproactiveの違いがあった。
2013-02-15 13:26:31「受動的」の対語として「能動的」があるのだから、受動的な法難に対して、能動的な殉教と位置付ければ、もう少しわかりやすく伝わったかもしれない。仏教・イスラム教・キリスト教における「殉教」の概念はそれぞれ違うが、共通するのは能動的な行動こそが後世で殉教と評価されることだろう。
2013-02-15 13:35:19考察:社会的制裁を受けた新興宗教の信者らは殉教者なのか
そういや、宗教的受難といえば、日本の旧オウム真理教はどうなるんだろう。あれは破防法適用されたくらいの反社会的活動だったわけだが、地下鉄テロや世田谷殺人事件を除くと、それ以前の教団の活動に対する取締りも「受難」といえるのだろうか。そして彼らにとっては、実行犯らは殉教者?ううむ‥。
2013-02-15 14:14:18一応、オウム真理教はインド仏教をベースにしているようだから、その受難(があるとすれば)は「法難」といって差し支えないんだよな。法難はあくまで仏教に対する弾圧であり、ほかの宗教には定義上当てはまらないわけだから。でも、教団の被害に遭った人々は教団の受難を法難とは認めないだろうな。
2013-02-15 14:22:12@tokkydo そうですね。正確には「適用を検討された」んでした。後で気付きました。
2013-02-15 14:28:10また仏教各宗派にとってはオウム真理教は「仏教」ではないわけで、仮に破防法の適用が検討されるような反社会的活動を行う前に当局の取締りを受けていたとしても、それを「法難」とは認めないんだろうな。結局、どの宗派が正統で大乗仏教と認められるかによって決まるのか。
2013-02-15 14:27:20日米での対照的な対応
実は地下鉄サリン事件が起きたとき、私は地下鉄日比谷線を通勤に使用しており最寄り駅が六本木だった。自分自身はほんのわずかな時間差で助かったが、社内にも被害者が出た(幸い間接的に吸っただけで命には別状はなかった)。もう一つ、宗教集団のテロというのを私は身近に感じたことがあった。
2013-02-15 14:45:50一方はテロという行為に及びつつ、多くの犠牲者を出したのにも関わらず破防法の適用を免れ、刑事裁判上の手続きのみで処理された事件。一方は、テロは起こさず強制捜査に抵抗したことから武力衝突に発展し司法側は圧倒的な武力で組織を壊滅せしめた事件。なんとも対照的な事件を見てきたものである。
2013-02-15 14:55:26今度はアメリカで、マサチューセッツ州に留学していた時だった。南部のテキサス州ウェイコでブランチ・ダビディアンというキリスト教プロテスタントのセクトが武装闘争を起こした。この時の米司法当局の対応は迅速かつ容赦のないものだった。ほとんど皆殺しに近い状態で鎮圧されたのだ。
2013-02-15 14:52:32認められる殉教と認められない殉教
この日本のケース。アメリカのケース。旧オウム真理教は仏教として認められず、ブランチ・ダビディアンは所属宗派から破門されていた。彼らの行為はいずれも反社会的という理由から刑事処罰されたり、武力攻撃されたわけだが、この犠牲者らは、彼らにとっては「殉教者」なのだろう。
2013-02-15 15:05:03だが、彼らはいずれの国においても、宗教(宗派)的にも社会的にも殉教者とも受難者とも認められていない。彼らは彼らの小さな社会の中でのみ「殉教者」なのだ。なんと哀れな者だろう。彼らの社会変革を目指す動機や行動には全く共感できないが、自らの正義に殉ずるも認められないのは哀れに思える。
2013-02-15 15:08:57