起床。今日は、朝の内に記事を一本(機能が締切!)書き上げて、手紙を書き、滞っているホームページの記事を更新し、そして、「放射能関係」本の執筆。夜は、神学国際シンポジウムの最後の準備会合。
2013-03-04 03:53:49朝書き上げる記事は、「放射能に関する宗教者国際会議」の報告。ホームページも、その続きの「日韓教会交流ツアー」。そして、「放射能」本。ここまでは、事務局長のお仕事。
2013-03-04 03:54:55神学者としての喜びは、夜の会合。神義論の問題を、正面から取り上げるチャンスをくださった。http://t.co/aF0VL62BUA
2013-03-04 03:57:31全体会は、これまでの教会間・宗教間協働の成果報告と課題を報告する。それは、それでとても大切だけれど、神学者としてトキメクのは、分科会。
2013-03-04 03:59:26主題講演に対して、応答する。その際、今道友信さんの「エコエティカ」と、中澤啓介さんの震災の神学を求める熱意と、「放射能に関する国際会議」で素晴らしい発表をされた張允載さんの現代神学的発題とが、一つに結び合う。
2013-03-04 04:01:26分科会のタイトルは、「 ポスト・フクシマの被災地における教会と社会 ――被災地から、リチャード・J・マウ教授の主題講演への応答――」。アウシュビッツの神学があり、ヒロシマ・ナガサキの神学があったのです。フクシマの神学もなければならない。
2013-03-04 04:02:20「フクシマの神学」と言った場合の「の」は、あくまでも属格。属格=genitiveは、ラテン語「生まれる」を語源とする。「フクシマから生まれる神学」が、求められている。とりわけ「放射能の専門家の議論」が我々一般人を困惑させている現状においては、それぞれの専門性が責任を負っている。
2013-03-04 04:04:52組織神学を専門とするならば、どう応答するか。これを激しい熱情で問うてくださったのは、中澤啓介先生。感謝に堪えません。
2013-03-04 04:05:49事柄は、神義論の深みに入ります。ここで、山浦玄嗣さんの言葉は忘れがたいものとして響く。「津波なんか起こして、神様はどうしてこんなことを?」という問に、被災者と共に山浦さんは応える。「そんなことは、暇人の問うことだ!」
2013-03-04 04:07:17仙台にいても、そう思いました。しかし、今は神義論が必要です。神がどのようにして正義であるかを問う議論。これは、実は、自然災害だけでは生まれない議論だと、震災で知らされました。
2013-03-04 04:08:14震災直下においては、神を恨む声など、出てこなかったというのが、私の理解です。(もちろん、例外は無数にあるでしょうが)。みんな、生きるのに必死です。そこには、神様の奇跡と思えることばかりが続く。神様への恨み節は、ほとんど出てこない。
2013-03-04 04:09:09でも、そこに人為が入ると、事態は変わります。物資配給の不公平、また、不公平を理由にした一部住民への排除。デマゴーグ。マスコミのラッシュ。ボランティアの傲慢。公益を私する人々の登場。そうした事柄は、「なぜこんなことに?」と、私たちに深刻に問わせます。
2013-03-04 04:11:06現代的な愼議論は、17世紀のライプニッツに起源を求められます。モナドを考案し、不確定性原理の祖形を作ったライプニッツは、同時に、フランス語で神義論を書いた。つまり、広く読まれることを願って、神義論を展開した。
2013-03-04 04:12:33窓のないモナドで世界を把握すれば、当然、偶然という概念が支配することになる。そう思わせるような、宗教戦争吹き荒れる17世紀。しかしそこでこそ、神義論が求められた。
2013-03-04 04:13:29ライプニッツの議論は、「最後は神様が何とかしてくれるから、今は我慢しろ」の議論。それは結局、「今回の災害も神の配剤だ」とする、所謂「天罰論」にしか、到達しない。
2013-03-04 04:14:16当然、それは、破たんする。最初は、リスボン大地震。それにショックを受けたボルテールの「カンディード」は、ライプニッツを徹底的におちょくる。
2013-03-04 04:14:57英国でも、ホープという人がライプニッツを踏襲し、それは広く読まれ受け入れられる。でも、第一次世界大戦が起こる。この手の神義論は、破たんする。
2013-03-04 04:16:02義論は、いつも同じ間違いを繰り返す。それは何か。それは、神義論を求めざるを得ないような悲劇は、神によってではなく、人によって、引き起こされているということ。それを、神のせいにするから、話がややこしくなる。
2013-03-04 04:16:58今回の基調講演でも、(ネタバレになりますか・・・?)ユダヤ教(旧約聖書)の神義論が展開する。それは、しかし、ライプニッツ ‐ ホープと同じ過ちに落ちっている。
2013-03-04 04:18:09イエスの物語は、その間違いを痛切に突くものとなっている。イエスは非業の死を遂げる。しかしそれは、どこまでも、人間の仕業として、そうなる。権力者だけではない。むしろ民衆が、イエスを惨殺する。
2013-03-04 04:19:06そこに、十字架が立つ。そして、そこに「復活のイエス」が望見される。もう一度、やってみようと、人々は立ち上がる。十字架にかけられたままのキリスト(救い主)という発想が、そこに始まる。
2013-03-04 04:20:19神が、人を苦しめるのではない。人が、神を苦しめているのだ。しかし、神は新しく復活し給う。何度でも。何度でも。神は苦しむ人の姿の傍にあり、痛む人の「顔」の中に顕現し、打ち捨てられた人の叫びを自らの声とする。その神は、くすしみの中に顕現し、必ず、復活する。
2013-03-04 04:22:08神が復活するならば、苦しむ人・痛む人・打ち捨てられた人も、共に復活する。そのことを語ること。それが、十字架を掲げる教会の役割となる。
2013-03-04 04:23:38教会は、痛む人の傍に立ち、その痛みをカーボンコピーする。痛みは、赦すことによって、コピーされる。赦しがたい不正義を、自ら引き受けて行くこと。なすすべもなく、しかしそこに立ち続けること。なすすべもない自分を赦し、そこにとどまること。そうする時、痛みはコピーされる。
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