教皇選挙について

新島隆治さんによる解説です。
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新島隆治 @ryuji_niijima

何か希望があったみたいなんで、教皇選挙の事を投下してみようか。字数制限があるから、全体投下まで時間はかかるだろうけど。元の文章は7年くらい前、ヨハネ・パウロ2世が亡くなった直後の教皇選挙をきっかけに同人誌の用語解説でまとめたものから。

2013-03-13 23:16:38
新島隆治 @ryuji_niijima

「教皇選挙」とはラテン語で「鍵が掛かった」という意味のコンクラーヴェ(Conclave)が元になっていて、カトリック教会の代表たるローマ司教=ローマ教皇を選出する選挙システムのことです。

2013-03-13 23:17:23
新島隆治 @ryuji_niijima

このシステムはカトリック教会の歴史の中で何世紀もかけて他国の干渉を防止し、秘密を保持するために練り上げられてきました。初期の教会では、どのように教皇が選ばれていたのか実はよく分かっていません。司教、司祭が中心になって、信徒の代表者も参加して選んだといわれています。

2013-03-13 23:17:49
新島隆治 @ryuji_niijima

教皇に選ばれる権利があったのは聖職者のみですが、彼らには投票権は与えられず、代わりに教皇を決定し、承認する権利が与えられていたらしい、ということまでは分かっています。

2013-03-13 23:18:40
新島隆治 @ryuji_niijima

歴代の教皇たちは選挙の方法を変更することや、望むなら枢機卿団を総入れ替えすることも認められていましたが、後継者を指名することだけは許されていませんでした。

2013-03-13 23:18:59
新島隆治 @ryuji_niijima

三一三年、コンスタンティヌス大帝は「ミラノ勅令」を発布してキリスト教を公認しましたが、ローマ皇帝やゲルマン諸王が教皇選挙に介入するようにもなりました。

2013-03-13 23:19:45
新島隆治 @ryuji_niijima

四一八年には教皇選挙には皇帝の承認が必要だという規則が定められました。これは教会に大きな弊害をもたらし、皇帝がこの規則を乱用し、教皇を任命したり、退位させたりするようになりました。

2013-03-13 23:20:04
新島隆治 @ryuji_niijima

七六九年、教皇ステファノ三世が教皇選挙法を定めます。ラテラン教会会議でのことです。これにより選挙権を持つものは聖職者のみと決められました。国の有力者や一般市民の参加は事後の「歓呼」による承認のみとなり、伝統だったローマ信徒の承認・選出が正式に廃止されました。

2013-03-13 23:20:52
新島隆治 @ryuji_niijima

ただし、貴族に限っては八六二年の司教会議で権利が復活されています。10世紀初頭〜11世紀半ばまでは、教皇位を巡っ て争いが続きます。この間、44人の教皇や対立教皇が生まれ、九人が暗殺、九人が追放されています。教会史上の暗黒時代ですね。

2013-03-13 23:21:39
新島隆治 @ryuji_niijima

この混乱を収拾するため一〇四六年、時の教皇クレメンス二世は皇帝に新教皇を任命する権限を与えました。

2013-03-13 23:21:55
新島隆治 @ryuji_niijima

次いで一〇五九年、ニコラウス二世が教皇選挙に関して皇帝や貴族の介入を退けるため、六人の司教だけに教皇を選挙する権限を与えるという規則を定めました。この六人の司教のことを「枢機卿」と呼びます。この六人が満場一致で選出した人を教皇とします。

2013-03-13 23:22:33
新島隆治 @ryuji_niijima

皇帝は選出された新教皇を承認するだけで、ローマの聖職者と信徒は事後の「歓呼」による承認だけが許されていました。この形式で行われる教皇選挙は一一三九年、ラテラン教会会議で選出における信徒と下級聖職者の同意が完全に廃止されることで終了します。

2013-03-13 23:23:06
新島隆治 @ryuji_niijima

さて、その少し前の一〇七三年に教皇グレゴリウス七世は「あらゆる世俗権力からの、教会と教皇職の完全な自由と独立」を宣言して皇帝や国王による司教の任命を禁じました。これが元となって教皇・皇帝間の激しい対立が起こり、「カノッサの屈辱」などの事件を生みます。

2013-03-13 23:23:49
新島隆治 @ryuji_niijima

結果としてグレゴリウス七世は時の神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ四世によってローマを追われ、亡命先のサレルノで客死しました。この「カノッサの屈辱」は別途後述します。(この時は別項で解説してました)

2013-03-13 23:25:06
新島隆治 @ryuji_niijima

一一七九年、教皇アレキサンドロ三世が教皇選挙の方式を法文化することで、選挙権は全枢機卿に与えられます。枢機卿会の三分の二以上の得票があれば教皇に選ばれます。同時にこの時から多数決制が導入されるようになりました。

2013-03-13 23:26:07
新島隆治 @ryuji_niijima

一二六八年、教皇クレメンス四世が死去し、それに伴い新教皇の選出が行われることになります。しかし次期教皇はなかなか決まらず、困り果てた教皇死去地の住民たちが新しい教皇選挙会「コンクラーベ」を考えました。

2013-03-13 23:26:59
新島隆治 @ryuji_niijima

ですが、これでもイタリア人支持とフランス人支持の二派が対立し、規定の票を獲得することが出来ず、後継者の選出に二年九ヵ月もかかってしまいます。実はこの期間中、枢機卿たちは自由に出歩き、外部の人々と接触していました。

2013-03-13 23:27:18
新島隆治 @ryuji_niijima

これが決定を遅らせる原因と考えた町の人々は、選挙会場である司教館に枢機卿たちを閉じ込め、差し入れる食料もパンと水のみとし、その量も次第に減らしていくことにしました。この結果、無事に次期教皇が選出されることになり、後々の教皇選挙方式に影響を与えることとなりました。

2013-03-13 23:27:53
新島隆治 @ryuji_niijima

現在の形式の原型となったのは、一二七四年のグレゴリオ十世による規定です。荒れに荒れたコンクラーベの末選出された教皇です。

2013-03-13 23:28:13
新島隆治 @ryuji_niijima

この規則によると、①教皇選挙会は、教皇の死後10日後に開く。②開催場所は教皇宮殿の一室。③期間中は外部との接触を一切絶ち、選挙は施錠された部屋で行う。

2013-03-13 23:28:50
新島隆治 @ryuji_niijima

④三日で選出されない時は食事を減らし、五日経っても選出されない時は、パンと水と葡萄酒だけにする――という、現在とあまり変わらない方式になっています。

2013-03-13 23:28:56
新島隆治 @ryuji_niijima

この後14世紀初頭から19世紀後半に至るまでの間に、十人の教皇が規約を制定したり、改訂を加えています。しかし枢機卿団だけが教皇選出権を持つという規定は、一三七八年以降の「教会大分裂」の時代において激しい論議の的となります。

2013-03-13 23:29:42
新島隆治 @ryuji_niijima

教皇が乱立し、最も多い時代で三人の教皇が同時に擁立されるという異常事態も引き起こします。一四一八年のコンスタンツ公会議で収拾が図られるまでこの泥沼は続きました。

2013-03-13 23:30:04
新島隆治 @ryuji_niijima

枢機卿団の人員は一時期七人だったこともありますが、その後16世紀後半まで増加の一途を辿りました。これを憂慮した教皇は上限を70名とします。

2013-03-13 23:30:30