復活のからだ
- wancupmaster
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*3年半の間、イエスの公生涯を共にしたトマスの信仰告白をイエスはそのまま受け入れられたのです。なぜなら、イエスご自身が「私(たち)の主」であり「私(たち)の神」だからです。アーメン。
2013-03-22 00:16:41ヨハネ20:29ートマスが復活のイエスのからだに触ったか否かの答えは、ここにあります。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」
2013-03-22 00:19:42主はトマスに対し、「手を差し入れなさい」と言われましたが、ここでは「わたしを見たから信じたのですか」と言われています。ということは、トマスは触らずに「見て」信じたのです!もちろんその背後には、一週間前の自分の発言を言い当てられていることもありますね。
2013-03-22 00:22:25「見ずに信じるものは幸いです」と言われた「見ずに信じる者」とは誰でしょう?ただここでトマスを戒めるだけに言われたのではありません。
2013-03-22 00:24:32「見ずに信じる者」とは、イエスの復活の証人たちの話しを聞いて信じる者たちのことです。もちろんその中には、「今」を生きる私たちも含まれます。聖書的には二人か三人の証言で有効でした。キリストの復活には500人以上の証人がいるのですー1コリント15:3~6。
2013-03-22 00:28:52ヨハネ20:31ー【聖書が書かれた目的】しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」 アーメン。栄光在主。
2013-03-22 00:33:09主の復活のからだの特徴はほかにもあります。ルカ24:33b~43。ここから分かることは、肉や骨を持っているということと、食事をされたということです。
2013-03-22 06:50:21ルカ24:33bーエマオへ向かう途中で主に出会い、エルサレムまで引き返して来たふたりの弟子は、11使徒たちが集まっている所に合流しました。
2013-03-22 06:52:44ルカ24:34ーシモン(ペテロ)に復活の主が姿を現わされたという記述は、ここと第一コリント15:5だけなので詳細は不明です。この時点ではまだ、ほかの10使徒たちには現われてはいませんでした。
2013-03-22 06:59:51シモンとは親が付けた名前で、ペテロとは主が付けられた名前です。ここで使徒たちは彼のことを元の名:シモンと呼んでいることから、元の生活に戻ろうとしたエマオへ向かう二人の弟子同様の心情が伺えます。
2013-03-22 07:02:53ルカ24:36ー密閉されていたかどうかは分かりませんが、「主が部屋に入って来られた」とは書かれていません。使徒たちが話しておられるところに突然、主が真ん中に立たれたのです。
2013-03-22 07:11:44ルカ24:37ー彼らは驚き恐れて…そりゃあ、誰だって腰を抜かすほど驚きますわね。恐れもするってものです。 霊を見ているのだと思った…そう「思い込んだ」という意味です。
2013-03-22 07:14:38ルカ24:38ー我らの主イエスは、どんな時も冷静です。パニックを起こした使徒たちとは対照的に、落ち着いて主は問いかけられました。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。」
2013-03-22 07:17:59大きな祈りがきかれて「え〜〜〜?! マジィ〜〜!!」と、ビックリしたことはありませんか? そんな時、主は「なぜ取り乱しているのですか?あなたは祈ってたではありませんか」と言われます。
2013-03-22 07:22:28未信者からの言葉に「あれ?! これって本当かな?」と自分の信仰に確信を失いそうになったことはありませんか? そんな時、主は「どうして心に疑いを起こすのですか?神にとって不可能はないと教えたではありませんか」と言われるのです。私たちの信じる神は、全知全能なる神です。アーメン。
2013-03-22 07:25:01ルカ24:39ーイエスは言われました。「わたしの手や足を見なさい」…そこには十字架の釘の跡があります。「まさしくわたしです」 「わたしにさわって、よく見なさい」…天の幕屋の清めを終えられ、大祭司となられたのでさわってもよくなられたのです。
2013-03-22 07:28:53「霊ならこんな肉や骨はありません」…1)神の小羊として来られた初臨の主は、人として来られました。神の御子としてだけならば、死ぬことはないからです。また、人としてだけならば、誰かひとりのためにしか身代わりにはなれません。(十字架はバラバの身代わりでしたーマタイ27:15~24)
2013-03-22 07:34:39イエスは全人類のために100%神として、また神の小羊として死ぬことができるように100%人として、十字架につかれたのです。cf ヘブル2:14aーそこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
2013-03-22 07:38:522)第一コリント15:50ー兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 人として来られた主は、私たちと同じく「血と肉」を持っていましたが、復活の主は「肉や骨」を持たれていました。
2013-03-22 07:54:34では、主の「血」はどこへ行ったのでしょう? ヨハネ19:34ーしかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
2013-03-22 08:04:54cf ヨハネ4:14ーしかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、けっして渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。
2013-03-22 08:07:00cf ヘブル9:12ーまた、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。 ヘブル9:22bーまた、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
2013-03-22 08:10:44イエスは神の小羊として、私たちの罪の贖いのために十字架の上で、血を注ぎ出してくださいました。そしてその血を携えて、まことの聖所を清められたのです。
2013-03-22 08:12:36