- king1234stone
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1899年には超一流名士やね。なおその夏ロンドンでセガンの2番めの著作を探したが見つからなかった。教具は使われていたが、考え方は失われていると感じたとのこと。まあようあるこっちゃな。
2013-04-25 16:50:45なお周囲を説得するのに「生産を増やすことが可能」とか結核予防における公衆衛生的努力が、事後にかかる費用より安くつく例え、とかの論理が使われている。このあたりはTEACCHなんかと一緒というか、「行政の説明責任」を考えるとこうなる、っちゅうもんかな。
2013-04-25 16:53:491898年には「(発達遅滞の子どもの教育のための)全国連盟」ができ、国立医療ー教育施設を作るための資金集めが行われた。1900年春には連盟はローマに「障害児の世話をしたり教育をしたりする教師を育てる医療教育施設」を作り、実践例証のための学校が附属していた。
2013-04-25 17:00:40モンテッソーリはこの学校の責任者にもなった。そしてその学校は当時としては「驚異的な結果」を示した。モンテッソーリはここの2年間で、昼間観察したことをノートに整理し、文献を集め、教具を作り、実践していった。でやってみての改善。
2013-04-25 17:07:351901年に辞任。で明らかになっていないが、モンテサーノ博士との間にマリオが生まれたのが大きいか。しかし・・・マリオはすでに1898年3月に生まれてるのだけど・・・それは1989年〜1900年あたりの活躍の妨げにはならなかったのだな。
2013-04-25 17:13:41マリオが聞いていたところによると二人は生涯結婚しない約束をしていたのに、モンテサーノが他の女性と結婚したからマリアは辞職した、とのこと。生涯、マリオは実の母に育てられることはなかった。しかしごくたまに実の母とはうちあけず会いには行っていたみたい。
2013-04-25 17:18:0630歳でローマ大学に再入学。哲学科。当時は心理学が哲学科にあったから。ヴントを勉強したかったと。そこで教育学・衛生学・実験心理学のコースを学びまた人類学も学んだ。「小学校で人類学的研究もした」ってのはどういうことだろう?
2013-04-25 17:24:121904年から1908年にかけてセルジの推薦で、ローマ大学教育学部で自然科学と医学のコースを教えることに。最初は「観察」次に「データ記録」最後に子どもを連れてきて「臨床的に例証」の3段階。また学生に教えるのに視覚教材を多用。
2013-04-25 17:30:49たぶんモンテッソーリが使った統計記録は今の目から見るとかなり無茶苦茶。でも「データから語る」「実証的であろうとする」態度は一貫している。
2013-04-25 17:36:291906年、スラム街に再開発住居を作った不動産屋が、家族が働きに出ている間に子どもにいたずらや落書きをさせないための「子どもをとじこめておく」部屋のアイデアを考え、そのアイデアを(もちろんそうは言わなかったろうけど)モンテッソーリに持ち込んだ。
2013-04-25 17:55:44「私は、教師には何の抑制もせず、特別な義務を課したこともありませんでした」「私は、ただ子どもたちの反応だけを研究したかったのです。どんなことでも、子どもたちの妨げになることはしないでちょうだい、そうでないと観察できないから、と私は彼女に言いました」
2013-04-25 18:02:42で数週間するうちに子どもたちに変化が。お絵かきやおもちゃで遊ぶよりも、円柱差しや、型はめに夢中になり、集中力がまし、とか。
2013-04-25 18:04:35モンテッソーリの学校は、子どもたちの本性と欲求が教育内容の出発点になっているという意味では子ども中心だったが、決定を下すのは子どもたちではなく、彼女自身だった。(中略)雄弁に自由を語る人々の多くと同じように、彼女自身も、いっぱしの独裁者だったのである。 (笑。で、それでええ)
2013-04-25 18:46:25両親の責任の明文化もしてる。(a)子どもの体をきれいにし、服を着せ、適当なエプロンを持たせて、指定時間に子どもの家へ送り届けること。・・・ってことはこれが難しい家庭もあったってことだろうな。
2013-04-25 18:50:23