すべちょいいはなし

西島大介「すべてがちょっとずつ優しい世界」展のいいはなしまとめ
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まほう @fushiginamamori

すべちょ展のときに言ってたやつだー超たのしみせかまほだいすきだー

2013-06-27 20:24:43
Ryoichi Tanaka @wiggling

すべちょ展ってこんなんだったのか。原画が踏まれてるよ...。> 西島大介:「マンガ」の展示はどこまで可能か? | PingMag http://t.co/ruHE7SRV8B

2013-06-27 09:34:05
西 島 大 介 ● 島 島(コムニスムス連載中、新連載ミーマイセルフアンドアイ) @DBP65

おはようございます。JUMP改連載の〆切まっただ中です。ご報告などもろもろあるのですが追って改めて詳細に。せかまほラジオドラマ、すべちょ展レポ、まほううつかい配信、あと掲載誌IKKIとSFマガジン出てますのでよろしく(集中)

2013-06-27 09:07:27
ドラムカンサラダ @_yurusu

@DBP65 おお、ありがとうございます。「みやむー」と「すべちょ」についてはずっと書かなければ、と思っていました。自分へのごほうびに買いますよ。

2013-06-26 19:23:27
ドラムカンサラダ @_yurusu

『すべちょ』でいちばん好きなのは「ピアノがなんども破壊される」ところかな。

2013-06-26 11:26:49
ドラムカンサラダ @_yurusu

と、いろんなことがなされているマンガだと思うので、思想信条問わずいろんなひとに読んでもらいたいですね。西島大介『すべてがちょっとずつ優しい世界』http://t.co/Mimfx28rL5

2013-06-26 11:26:23
ドラムカンサラダ @_yurusu

すると、それは一枚の写真のようにあなたの記憶に呼びかけるはずだ。https://t.co/B8Pm4pwAOj

2013-06-26 11:25:02
ドラムカンサラダ @_yurusu

話を『すべちょ』に戻すと。「くらやみ村」という名前を取り戻す、自らその名前を名乗るというラストは、一回目を強く意識することによって二回目に起こったことを「忘れないようにする」こと、といえる。そして読み終えたマンガをそっと机の上に置く。

2013-06-26 11:24:30
ドラムカンサラダ @_yurusu

しかも、SFの想像力が変わるということは、オタク的想像力も今のぼくたちの想像力にも大きな変化を与えるかもしれない。うわーっSFについて考えるのって超おもしろそーじゃん、なのだが。しかしそれは「せかまほ」シリーズがすでに先んじて実践してきたことでもある。(「せかまほ」=SF)。

2013-06-26 11:23:07
ドラムカンサラダ @_yurusu

と同時に、その変化自体が「二回目」以降のシミュレーションになりえるということ。いままではSFの「未来」というモチーフが「ありえたはずの今」の別名にしかなりえなかったのが、「二回目」の「結末と起源」があることで「これから起こるかもしれない過去」という未来を描くことが可能になった。

2013-06-26 11:22:51
ドラムカンサラダ @_yurusu

しかし「福島」という「二回目」が起こることで、その漠然としていた「一回目」が意識しなおされるわけだけど。その「思い出し」はノスタルジーや過去の美化ではなくて。「一回目」とはなんだったのかという歴史が再検証されることで「一回目」の意味が今までとは違うものに上書きされ変化してしまう。

2013-06-26 11:22:12
ドラムカンサラダ @_yurusu

くらやみ村の住人は誰もその過去の栄枯を指摘しない。その閉ざされた村の中で反復と忘却をくりかえしている。村長は過去を知ってはいるけど議題にはのぼらない。くらやみ村のあなぼこ山の姿は「アイデアは出尽くした」と言われるSFのすがたとだぶる。

2013-06-26 11:21:26
ドラムカンサラダ @_yurusu

「僕はSFに対しては唯一帰属意識があるのですが、アニメと比べてSFなんてとっくに死んでいるようなところがありますから。」(西島大介「まだ、アニメじゃない!?」『STUDIOVOICE』2004年7月号)。

2013-06-26 11:21:14
ドラムカンサラダ @_yurusu

それがSFからオタクへと継承され、さらにそのコピーがぼくたちだとすれば。SFのコピーである「オタク的想像力」のコピーでしかないという状況というのが西島大介にとって重要なテーマだったと思うのだけれど。それは言ってみれば無意識的な「広島」(=起源)の影響が薄れていく過程だった。

2013-06-26 11:20:50
ドラムカンサラダ @_yurusu

「起源との和解」とは『すべちょ』において「くらやみ村」という名前を取り戻すという形で現れてると思うけど。すこし帯の「広島」「福島」に引っぱられてみるならば。「広島」という一回目の「結末」があると同時にそれは戦後の想像力の「起源」でもあった。

2013-06-26 11:19:35
ドラムカンサラダ @_yurusu

というか全感覚派よみたい・・・

2013-06-26 11:18:50
ドラムカンサラダ @_yurusu

椹木野衣『爆心地の芸術』(2002年、晶文社)を参照すれば、AKIRAのラスト「廃墟と化したビル群が再生するシーン」は大友克洋にとって「起源」=手塚(未来、ユートピア)との「和解」だったとすれば。『すべちょ』において西島大介が和解したのは「SF」であると。

2013-06-26 11:18:19
ドラムカンサラダ @_yurusu

あとあれですよね。AKIRAのラストを彷彿させるというかしましたけどね。

2013-06-26 11:17:48
ドラムカンサラダ @_yurusu

と、恒例のステマオチですが。

2013-06-26 11:16:48
ドラムカンサラダ @_yurusu

だから誰かに見つけてもらうしかないし、誰かを見つけるしかない。とりあえず、AIKOKOギャラリーでやってた「すべちょ展」http://t.co/RR2kDyK8HPもしくは「すべちょ展2(仮)」や「こいこん」http://t.co/KcCvCB77Ioで探すのが手っ取り早そうだ。

2013-06-26 11:16:21
ドラムカンサラダ @_yurusu

なぜならば、自分の顔だけは絶対に「目に見えない」から。世界が地獄でないことを証明するために「おばけ」は発見されなければならない。

2013-06-26 11:16:05
ドラムカンサラダ @_yurusu

西島大介は想像力の中に描き込まなかった。それはまるでグラフティのように現実へと潜りこみ描き込んでいく。読者は気づかないうちに、自分の思っていた顔とは違う顔に変えられている。いつのまにか以前の「古い」自分は葬られ「新しい」「何か」に変えられている。

2013-06-26 11:15:43
ドラムカンサラダ @_yurusu

先述したように、このマンガをぼくたちはのぞきこむように見ていた。くらやみ村の木々の間にふと見切れる人影。それは鏡に映ったあなたの顔ではないか。つまりここで描かれる「おばけ」とは、西島大介の手によって新しく上書きされた、マンガの上から書き込まれたぼくたちの顔なのだ。

2013-06-26 11:12:41
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