治承四年(&寿永三年)の食糧事情~腹が減っては戦はできぬ~

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平 資盛 @sukemori_t

【治承四年夏の天気/食糧事情 6-1】 (玉葉・山槐記・吉記より) この年西日本を干ばつが襲い、飢饉となりました。 *五月⇒雨天16日/晴天15日 *六月⇒雨天14日/晴天16日 *七月⇒雨天 0日/晴天24日(天候記事なし7日) *八月⇒雨天 4日/晴天27日 

2013-05-18 15:13:05
平 資盛 @sukemori_t

【治承四年夏の天気/食糧事情 6-2】 西日本を大干ばつが襲い、六月に淀川の河水が乾き、淵が瀬となり、船や筏が動かなくなったと記されています(玉葉)。 飢饉は一度起きると農家では種子まで食べ尽くしてしまうため翌年も影響され、三年に渡るのが常でした。

2013-05-18 15:13:25
平 資盛 @sukemori_t

【治承四年夏の天気/食糧事情 6-3】 一方、源氏の本拠地東日本に干ばつの記録はありません。古来東日本は「雨年に豊作なく干ばつに不作なし」と言われていました。雨の多い年でも一応の作柄があり、干ばつでも不作にはならないということです。

2013-05-18 15:13:42
平 資盛 @sukemori_t

【治承四年夏以降の天候/食料事情6-4】しかし源氏勢も合戦場が西に伸びると、兵糧徴収に悩まされました。上洛を果たした木曽殿もたちまち兵糧不足で強盗の群れと化しました。寿永三年、頼朝は院に四か条を申し入れましたが、その中に機内近国からの兵士と兵粮米徴収の許可願いが含まれていました。

2013-05-18 15:15:23
平 資盛 @sukemori_t

【治承四年夏以降の天候/食料事情6-5】しかし追討軍は諸国での兵粮米調達を禁止されました。『諸国兵糧の責、ならびに武士他人領を押収事、停止すべき由、宣旨をくださる、武士実に申し行う』(玉葉・二月二十二日條)このため、一の谷合戦から一気に平家追討に乗り出すことができなくなりました

2013-05-18 15:15:57
平 資盛 @sukemori_t

【治承四年夏(以降)の天候/食料事情6-6・寿永三年】同年八月鎌倉を発ち西国に向かった蒲殿が、年末に長門に到達するも、飢饉による兵糧の欠乏で軍を動かすことが出来ませんでした

2013-05-18 15:16:10
平 資盛 @sukemori_t

源平期の米品種はまだ古代のままで、耐寒性、耐乾性が低く、吸肥姓も劣るため、気候の変化に対する抵抗力は乏しいものでした。米粒の糖質も少なくカロリーも低いため、重労働には大量の食品を必要としました。西日本の米に頼る生活をする勢力が、簡単に飢餓に見舞われるのはこういう悪条件のためです。

2013-05-15 19:29:27
平 資盛 @sukemori_t

源氏支配の東日本では、水田開拓の条件に恵まれないため、畑地農耕や焼畑慣行が盛んで、ヒエ、アワ、ソバなど比較的耐寒、耐乾性を持つものが普及していました。更に、自生の山芋、葛根、百合根や畑作の長芋、里芋も豊富で、野戦の携行食に保存食としてこれらの根茎を供給しました。

2013-05-15 20:30:47
平 資盛 @sukemori_t

在地生産者の東国武士は現地で食料を生産し、農民からは食料収奪の便を直接持ちました。これは平氏が被官を任命して間接的に収奪を行なっているのと事情を異にします。また食品禁忌のない東国武士は野獣、野鳥、あらゆる魚介類を捕食し(多くは全体食)、公家から見れば下賤の風習が行われていました。

2013-05-15 21:29:31
平 資盛 @sukemori_t

料理には刃物を使うので、包丁司は後世でも男性であるように、武士は多く小刀を持っており、調理司を兼ねていたとも言えます。行軍野営などに、武士は随所で自ら調理できたということは武士の戦闘力の要素でもあり、この点が公家化した武士との違いでした。

2013-05-15 22:30:08