神津武男氏の倉田喜弘氏『文楽の歴史』評

神津武男氏の『文楽の歴史』評です。
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神津武男 @Izumonojyo

竹本摂津大掾と「弥作鎌腹」8。1856安政3年正月京都、素人「広丸連」が大坂十三を迎えた、「弥作鎌腹の最初の上演記録」については、拙稿「辻町文庫浄瑠璃関係資料調査報告(後編)」(『演劇研究』第31号)にすでに報告しております。 http://t.co/gAKdXPvJgz

2013-06-20 20:34:45
神津武男 @Izumonojyo

竹本摂津大掾と「弥作鎌腹」9。1856安政3年正月、京の素人・広丸連は『義経千本桜』の立て(せんぼんのたてぇ!とは上方落語「猫の忠信」で耳に馴染みのあるところ)に、付け物として「増補義士伝 鎌腹のだん」を上演。「切 大坂十三・糸 鶴沢亀治郎」。

2013-06-20 20:41:26
神津武男 @Izumonojyo

竹本摂津大掾と「弥作鎌腹」10終。大坂の十三・鶴沢亀治郎と、京の広丸連の繋がりは、前出「「野沢語助」自伝」に拠って判明するところ(倉田氏に感謝)。安政3年正月の番付は記録上の初出であるが、初演とみて良いと私は考える。番付はコチラ→ http://t.co/kJQjKtDMKm

2013-06-20 20:46:59
神津武男 @Izumonojyo

1856安政3年正月、京縄手三条下ル 繁の家席での、立て『義経千本桜』、付け物『増補義士伝』『一ノ谷嫩軍記』の番付は、演劇博物館のデータベース「番付」検索で、” i14-00013-0153BB ”と当たってください。「増補義士伝」でも検出できます。

2013-06-21 07:28:34
神津武男 @Izumonojyo

人形浄瑠璃文楽の歴史の「雛型」は、木谷蓬吟『文楽史』1943昭和18年にあり。 明和の劇場中絶から、文化の「文楽軒」へ飛んで、天保の改革、名人列伝、…という大筋。 http://t.co/wfKdjol9qb … 「文楽の初めての通史」も踏襲している、と思う。

2013-06-21 07:52:57
神津武男 @Izumonojyo

三味線の位を示す、「沢」の書き分け1。4頁に「初めは「沢」でカナ沢、上達すると行書の「さわ」で半沢、一人前になると本沢といって「澤」を用いた。」とあるが、カナ沢・半沢は「」内が入れ替わっていないか? > 倉田喜弘氏著『文楽の歴史』岩波現代文庫

2013-06-21 08:30:01
神津武男 @Izumonojyo

三味線の位を示す、「沢」の書き分け2。本沢ホンザワは楷書で「澤」と書く。半沢は旁をくづして書くので「半」とみえることから、ハンザワと称える。その下位は、「沢」を用い、旁を尺と書くので、シャクザワと呼ぶ。 > 倉田喜弘氏著『文楽の歴史』岩波現代文庫

2013-06-21 08:54:42
神津武男 @Izumonojyo

三味線の位を示す、「沢」の書き分け3。カナザワもあると伝わるが、著者のいう(らしい)「さわ」と書くのでなく、上の「鶴」を「つる」、「野」を「の」、「豊」を「とよ」と書いたものを呼んだのではないか(とは神津説)。近代にその例は無い模様。 > 倉田喜弘氏著『文楽の歴史』岩波現代文庫

2013-06-21 09:03:21
神津武男 @Izumonojyo

三味線の位を示す、「沢」の書き分け4。著者も「人数が増えた明治以降、「沢」の字体でキャリアの差を示すようになった」とするので、挙げるべきはシャクザワ・ハンザワ・ホンザワであろうはづ。 > 倉田喜弘氏著『文楽の歴史』岩波現代文庫

2013-06-21 09:05:56
神津武男 @Izumonojyo

三味線の位を示す、「沢」の書き分け5。近世期・江戸時代、Aかなざわと区別された「沢」はBシャクザワとCホンザワであった模様。ただしAとB、BとCの組み合わせでの出現なので、ABCの位階があったとまでは言い切れない。 > 倉田喜弘氏著『文楽の歴史』岩波現代文庫

2013-06-21 09:11:51
神津武男 @Izumonojyo

4代野沢喜八郎は、3代の門弟で「三代野沢吉五郎ト改メ 更ニ師名相続 四代野沢喜八郎トナル」。しかし「吉五郎ト成リ又喜八郎ヲ相続セシ年月等不明ナリ」。当然生没年も未詳。なぜここまで何も判らないのか、というと…続

2013-06-22 18:09:34
神津武男 @Izumonojyo

「芝居出勤モ京都斗リニテ大阪ヘハ出勤ナカリシモノト思ハル」、4代野沢喜八郎は京都でだけ出演して大坂の劇場に出なかったため、と推定。「然シ京都諸座ノ番付及ビ文献乏シク委シク識ル事ヲ得ズ 甚ダ遺憾ナリ」、京都の番付その他の資料が無いので判らん!、とは…続

2013-06-22 18:14:46
神津武男 @Izumonojyo

野沢派の伝承を集成した書『野沢の面影』の編著者・野沢勝平、のちの2代野沢喜左衛門の述懐。京都の人形芝居の「番付及ビ文献」が乏しいのは今も変わらず、「甚ダ遺憾」なのですが、4代喜八郎の改名年次がさきほど判りました。1834天保5年3月3日です。

2013-06-22 18:18:25
神津武男 @Izumonojyo

素人の太夫たち(義太夫節)の番付の年次考証に頭を悩ましていた、というのは、素人の太夫と、本職・野沢派の三味線たちの素浄瑠璃会の年次を考証するため。

2013-06-22 18:25:39
神津武男 @Izumonojyo

竹沢・鶴沢・豊沢・花沢等々の「沢」は、沢住検校由来の「沢」であるのに対し、野沢は初代喜八郎の屋号「野沢屋」に由来するという独特の一派なのです。しかも初代以来、京都の地に深く根を下ろした、京都における義太夫節伝承の中核にある一派として、より注目されるべき存在(だとわたくしは思う)。

2013-06-22 18:30:43
神津武男 @Izumonojyo

野沢吉五郎の4代喜八郎への改名が1834天保5年3月3日である、とすると、「吉五郎事」と肩書き無しに「野沢喜八郎」と名乗る、「未正月十七日」初日の興行は、1835天保6年の未(もうひとつ前の、1823文政6年と迷ったところ)。この時までに新・吉五郎の改名もあった模様。

2013-06-22 19:28:57