久脩さま、最期を語る
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万里小路充房は監督責任を問われて丹波篠山藩に配流、与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後に配流、更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・「彼」を出仕停止にした。憤慨した天皇は退位しようとするが、江戸幕府使者である藤堂高虎が天皇を恫喝、与津子の追放・出家と和子の入内を強要した。
2013-07-21 23:14:46禁中並公家諸法度11条には、関白や武家伝奏の指示に従わない公家を流罪に出来る規定が設けられていたが、秀忠は武家伝奏と結んでこの規定を行使した。また、これをきっかけに江戸幕府による朝廷に対する様々な干渉が行われるようになった。
2013-07-21 23:15:33尚、元和六年(1620)六月十八日に和子の入内が実現すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した六名の赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した……以上Wikipedeaより引用。
2013-07-21 23:16:46朝廷の力が落ちていた時代において、「彼」の生殺与奪は他の例にもれず武家で実権を握っていた支配者が握っていたともいえる。 天文・暦・占術・漏刻という、国が成立するうえで欠かせない仕組みを司る陰陽寮、その頭を代々務めてきた土御門家にとっては それは逃れられない運命なのかもしれない
2013-07-21 23:22:28「彼」は所謂「戦国三英傑」全てに仕える事となり 歴史の陰で多くのことをなし 朝廷からの信頼もあつく 幾つかの失策もあれど 無事に次代へと「土御門家」の当主の座を譲り渡すことが出来た。
2013-07-21 23:24:54嫡男、泰重の日記に様子が詳しく書かれている。死去の前日。「十七日甲午、晴、今日散々、以外御苦痛、笑止千万也、少御気散乱、己自害有度之由御申候、無勿躰之由申候、苦痛甚相見候、自他予兄弟共難儀千万不過之候、終日終夜御苦痛也」
2013-07-21 23:42:20乙未、晴、今朝寅初刻以前御■化、言語道断無是非次第也、此中御苦労種々御しをきともの事皆々申出、涕泣無正躰、人々周章、難言語尽、愁涙難乾候、方々御弔人被曽田候、(中略……数多の人名) 皆御見廻御使者給也、(中略)、沐浴之作法共申付、浄華院僧也、今晩入棺沐浴也
2013-07-21 23:52:50七月二十二日 蝶は暑さをさけ 多くの物を背負った羽を休める 彼の父・祖父・曾祖父は名田庄に眠っているが、彼はそこには眠っていない。 そして土御門の菩提寺は京都の下京区梅小路にある、梅林寺である。
2013-07-22 00:00:25