久脩さま、最期を語る

国政選挙の夕べに、久脩さま( @tsuchi_h )の昔話。 ※最後の方なんか違うの混ざってるけど自分用にまとめてる部分が大きいのでご愛敬ということで。
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土御門久脩 @tsuchi_h

俺の時代に選挙があったら土御門家は…

2013-07-21 11:25:15
土御門久脩 @tsuchi_h

俺も(というか土御門家は代々)国家公務員だし中央政権のすぐそばで家業がんばってたわけだけど、投票できたら…誰に投票してたかな

2013-07-21 11:28:40
土御門久脩 @tsuchi_h

\はっじまっるよー/ だらだらだらだら間をあけて続くから長いぞ!

2013-07-21 19:24:46
土御門久脩 @tsuchi_h

その男は生年も父親さえも定かではないが 永禄元(1558)年、または同三(1560)年、陰陽道を司る土御門家の、土御門有脩の息子として此の世に生をうけた と言われている。 賀茂家の生まれで後に土御門の養子となったという説もあるが ここでは有脩の息子として話を進めていこう

2013-07-21 19:47:17
土御門久脩 @tsuchi_h

彼の幼い頃の記録はほぼ残っていないが、十三才で元服し十四才で陰陽頭となる。当時父の有脩は京と若狭を往復する生活をおくっていたから、未だ若い「彼」は何かと苦労も多かったという。

2013-07-21 20:31:51
土御門久脩 @tsuchi_h

十四才で陰陽頭を拝命し、翌年十五才にして治部大輔となる。更に翌年十六才にして左馬助となった事が記録に残っている。 当時の陰陽師zとしての活動はあまり記録に残っていないが父有脩の後を継ぎ、賀茂の血と技術が途絶えるのを防ぐ為に父子共々邁進していた

2013-07-21 20:38:06
土御門久脩 @tsuchi_h

「彼」にとって最初の試練は十代後半で父・有脩が没した事だった。その頃衰微していた賀茂家を継ぐべく父有脩の弟が賀茂家の養子として入っていたが、「彼」は必然的に両道を学ぶこととなる。賀茂家(幸徳井家)は後にいったんは陰陽頭もつとめる事になるが……それはまた別の機会にはなそう

2013-07-21 20:53:07
土御門久脩 @tsuchi_h

帝に御仕え申し上げ歴代の陰陽頭に見劣りせぬ働きをしようと尽力していた「彼」にとって二番目の試練が、天正十年の改暦問題であったといえる

2013-07-21 21:04:15
土御門久脩 @tsuchi_h

天正九年(1581)に陰陽寮が作った翌年の京暦は、次の閏月を翌々年すなわち天正十一年(1583)の閏一月としたのに対して、東国で広く使われていた伊豆国の三島暦は、天正十年(1582)に閏十二月を置いたことから二種の暦が生じることとなった。

2013-07-21 21:10:43
土御門久脩 @tsuchi_h

尾張国の暦業者がこれに困惑し、安土城の信長に閏月を天正十(1582)年閏12月に統一して欲しいと要請した。このため、信長は陰陽頭であった「彼」を安土に呼び出して尾張の業者と論争をさせたところ決着が付かず、最終的に信長の判断で閏月を十二月に置くように決定して朝廷に要望を行った。

2013-07-21 21:11:57
土御門久脩 @tsuchi_h

信長はその後、近衛前久を通じて朝廷との調整に当たらせていたが、毛利輝元討伐のために上洛し際に再度この話を公家衆に持ち出した。このため、「彼」の義兄でもある勧修寺晴豊は日記に「無理なる事と、各申すことなり」と記している。

2013-07-21 21:14:41
土御門久脩 @tsuchi_h

彼にとって第二の試練であった改暦問題は、前述の晴豊が印した日記の翌日……後に言う「本能寺の変」が発生して信長は横死したこともあり、この件は有耶無耶のうちに終わってしまう。  彼にとって織田信長公が亡くなるのは大きな痛手だった

2013-07-21 21:17:23
土御門久脩 @tsuchi_h

天正十三年、嫡男の泰重が誕生し、「彼」のひとつの懸念は一応消える事となる。賀茂家の様に途絶える事は(油断はならないが)一応先送りにできたのであった。

2013-07-21 21:25:18
土御門久脩 @tsuchi_h

月日は流れ、織田の時代から羽柴・豊臣の時代へうつろうなかでも、土御門家は己が職掌を守り続け、時代に引き継いでいくはずだった。が、ひとつの大きな転機が訪れる。

2013-07-21 21:48:42
土御門久脩 @tsuchi_h

「依違武名」出奔 ……年代は定かではないが おそらくは秀次事件に関連したものではないかとされている。 まあこれは流罪となったものとは別の記録ではあるのだが。 そうして彼は一時、様々な記録からほぼ名前を消す事となる。…………尾張に流された後、若狭に蟄居した説もあるが定かではない

2013-07-21 22:01:59
土御門久脩 @tsuchi_h

「彼」が守るべきであった、代々引き継いでいたであろう資料や記録はその時に失われたと伝わっている  彼がなしえてきたこと なすべきだったことを 残す資料はほぼ 残っていない

2013-07-21 22:43:39
土御門久脩 @tsuchi_h

「彼」が表舞台に戻ってきたのは慶長五年十一月、 関ヶ原の戦いの少し後のことだった。 若狭をひきあげ後は京に拠点を移すこととなる。 雌伏の時を耐え抜き 彼は戻ってきた

2013-07-21 22:51:54
土御門久脩 @tsuchi_h

彼は若い頃……織田・豊臣時代にも知行地の朱印を貰っていた。徳川の時代にうつり、知行は山城国鶏冠井村五十石・梅小路村八十石・寺戸村二十石・吉祥院村十七石六斗・西院村十石の、合計百八十三石六斗をあてがわれる(※計算してみると実は正しくは百七十七石六斗である誰だ計算したの!)

2013-07-21 22:58:34
土御門久脩 @tsuchi_h

尚、あまり知られていないが家康公、秀忠公、家光公と徳川家三代の将軍宣下、また後水尾天皇即位に伴う一代一度限りの【天曹地府祭】を執行したのは他ならぬ「彼」である。 

2013-07-21 23:06:58
土御門久脩 @tsuchi_h

公家昵懇衆として、朝廷側の人間でありながら徳川幕府に対しても己の力を捧げてきた彼にとって最後の大事件がある。およつ御寮人事件。元和五(1619年)に江戸幕府が後水尾天皇の側近である公家六名を処罰した事件。権大納言万里小路充房の名を採って「万里小路事件」とも称する。

2013-07-21 23:12:16
土御門久脩 @tsuchi_h

娘和子の入内を進めていた将軍徳川秀忠と御台所江与は、典侍四辻与津子が親王(賀茂宮)を生んだことを知って激怒、更に与津子が懐妊したと知った秀忠は九月十八日、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏広橋兼勝と共にこれを追及した。

2013-07-21 23:13:29