2013.8.9
- minna_no_kinop
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1.今日は長崎原爆の日。広島原爆の被害があまりにも甚大で、かつ広島原爆は人類史上初の核兵器による攻撃だったので、どうしても影が薄くなりがちだが、長崎の被害も忘れてはならない。
2013-08-09 09:09:462.使用された原爆は広島で使われたもの、長崎で使われたものそれぞれに名前がある。広島に落とされたものはウラン爆弾の「リトル・ボーイ」、長崎に落とされたものはプルトニウム爆弾の「ファット・マン」と言う。
2013-08-09 09:11:113.死者、家屋損害などは長崎の方が広島に比べて小さいものになっているが、これは原爆が炸裂した場所と当時の環境が運命を分けた結果となっている。簡潔に申せば、広島原爆は攻撃側にとって最高の環境で、長崎原爆はギリギリの環境下で炸裂した、といったところだろう。
2013-08-09 09:13:294.1945年(昭和20年)8月6日の広島は快晴だったので、米軍の作戦は殆ど計画通りに進み、炸裂した場所も標的である相生橋からわずかにずれただけで、予定通りに進行した。これに対し8月9日の方は、状況が広島の時とは全く違っていた。
2013-08-09 09:18:445.当初、ファット・マンは長崎ではなく小倉(現在の北九州市)に投下される予定だった。ところが準備作業に手間取り、その間に天候は曇天となって、さらに日本軍に存在がばれて反撃を受ける恐れが発生、さらに燃料にも余裕がなくなったので、標的は長崎に変更された。
2013-08-09 09:22:566.長崎も当時は曇天だった。しかしほんのわずか、長崎市浦上地区の上空に「雲の穴」が生じていて、ファット・マンはそこから投下された。長崎は山に囲まれた地であるために、原爆の影響は山によって大幅に食い止められたが、それでも爆風、熱風は凄まじく、浦上地区と長崎市街を挟む山は一瞬で禿山に
2013-08-09 09:25:507.幾分威力の弱まった状態でも、爆風は長崎に甚大な被害を与えた。爆心地に近い浦上天主堂は焼け落ち、当時「ゆるしの秘跡(告解)」が浦上天主堂で行われていたそうだが、司祭、参加者を含む全員が熱線と浦上天主堂の崩落による瓦礫直撃などで即死だったという。
2013-08-09 09:31:488.これはあくまで試算だが、ファット・マンの威力はリトル・ボーイの1.5倍相当であったとされている。ファット・マンは炸裂した場所が長崎市街から3kmもずれた位置であり、前述の通り市街地と爆心地の間に山が存在したため、広島の被害よりも被害自体は軽微なものとなったが、
2013-08-09 09:41:009.仮にもしファット・マンが計画通り小倉上空で炸裂していたならば、爆風は小倉だけでなく、現在の北九州市全域と関門海峡が丸ごと被爆(放射能汚染)し、さらに下関にも原爆被害が発生していたのではないか、とも言われている。平坦な地で炸裂していたら広島の被害規模を超えた可能性があったのだ。
2013-08-09 09:44:0810.なんにせよ、日本は2度も核兵器による攻撃を受けた。これは紛れもない事実だ。しかし、問題はこの原爆を「恨む」事ではない。原爆被害の凄惨さを世に伝え、倫理観を人々に取り戻させ、世界平和を進んで呼びかける事にある。
2013-08-09 09:46:2411.確かに、原爆を落とした米軍に対し、怒りや憎しみを抱く者も少なからずいらっしゃるだろう。しかし、悪いのは米軍だけだろうか? 真珠湾攻撃を仕掛け、ドイツ・イタリアが降伏して戦況が不利になりポツダム宣言が出されても拒み続けた日本側にも、非が無いとは決して言えないだろう。
2013-08-09 09:48:2912.犯人探しをしても被爆死者や被爆前の体は決して戻ってはこない。そんな事にこだわっていないで、未来を生きる人々に原爆投下とそれまでのいきさつを正しく伝える事が、一番大切な事ではないか。(了
2013-08-09 09:50:51