130830 「戦争では基地が一番の標的になる。だから基地を作らせてはいけない」基地から村を取り返した元村長が語る平和への道筋~岩上安身による山内徳信氏インタビュー 実況ツイートまとめ

記事・映像はこちら→http://iwj.co.jp/wj/open/archives/98918
国際 山内徳信 読谷村 岩上安身 飛行場 IWJ 米軍基地
0
岩上安身 @iwakamiyasumi
以下、連投します。 RT @IWJ_ch1: 1.これより、8月30日、岩上安身による山内徳信氏インタビューの実況ツイートを行います。山内氏は読谷村村長を6期務めた後、7月まで参議院議員を務められました。沖縄戦の時は小学生で、戦中、戦後と、激動の時代を経験されてきた人物です。
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投2 RT @IWJ_ch1: 2.岩上「アメリカがシリアで開戦するか否か、そういうアメリカが進めていく戦争に日本が自動的に組み込まれていくかもしれない。順を追ってお話をうかがいます。この読谷村では戦中、戦後、当時どのように生活されてきたのでしょうか」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投3 RT @IWJ_ch1: 3.山内氏「14世紀、当時の琉球の王様は、読谷の北にあるところから中国に貿易に行った。琉球王国の発展に寄与した人。ここは農林漁業の豊かな、教育熱心の村でした。アメリカに最初に任命された沖縄主席は英語が達者な人物でした」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投4 RT @IWJ_ch1: 4.山内氏「読谷村は、沖縄本島にアメリカが最初に上陸した場所。事前に徹底的に調査されて上陸した。4月1日の上陸の1週間前から、ものすごい爆撃で全て焼き払われてから上陸しました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投5 RT @IWJ_ch1: 5.山内氏「皇民化教育、軍国主義教育で軍国青年を作っていく。『鬼畜米国』と教えられました。日本が1等国民でアジアの人々は2等3等だと民族差別もすごかった。そうでないと戦場で人を殺せなかったんです」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投6 RT @IWJ_ch1: 6.山内氏「実際に戦争になったときから、日本軍への尊敬や信頼関係は逆転しました。防空壕の中で赤ちゃんが空腹で泣いて訴えても、日本兵は『殺せ』と言う。お母さんがタオルで声を押さえる場面を何度も見ました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投7 RT @IWJ_ch1: 7.山内氏「戦争の足音が日に日に高まって沖縄に忍び寄ってきました。与那覇岳という一番高い山で避難していましたが、アメリカが上陸してきたら、北に避難した人々は助かった人が多い。南に逃げた人は厳しかった」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投8 RT @IWJ_ch1: 8.山内氏「アメリカが放った弾を計算すると、沖縄では1坪に9発の弾が撃ち込まれたということになる。飛行場ができる前も、後の姿も私は見ています。肥沃な畑が飛行場に変わっていく。飛行場があったために上陸地点になってしまった」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投9 RT @IWJ_ch1: 9.山内氏「読谷と嘉手納の飛行場を占領してしまえば、本土への攻撃も充分。物資を陸揚げできる場所も読谷にあった。戦争では基地が一番の標的になる。だから基地を作らせてはいけない。朝鮮戦争のとき、爆音で一日、20回も30回も授業が中断することがあった」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投10 RT @IWJ_ch1: 10.山内氏「戦争に巻き込まれる可能性がありました。なので、そのときに南米へ移民した人もおりました。朝鮮戦争があって、日本はサンフランシスコ講和条約で一応の独立を果たした。そこから沖縄の根本的な悲劇が始まったんです」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投11 RT @IWJ_ch1: 11.山内氏「沖縄を切り離してアメリカの統治下において本土は独立。読谷、那覇、宜野湾などで、キャンプ・ハンセンなどの基地が作られていった。それに沖縄の人々は抵抗して、伊江島での闘いを沖縄本島にも広げていかなければならないということになった」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投12 RT @IWJ_ch1: 12.山内氏「いろんな団体が協力していくようになりました。滅茶苦茶な基地接収を止めるのに、基地のアメリカの軍用機を使ってアメリカ本国へ抗議に行くということもありました。戦後の沖縄を救おうと、米国へ移民した人々の動きもありました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投13 RT @IWJ_ch1: 13.山内氏「戦中は英語を使えなくて授業で先生が困っていました。アメリカの白人は戦争に勝つからと、戦後処理についても勉強してきていた。沖縄の言葉で『どこへ行くの?』と聞かれたこともありました。私たちが戦中に教えられてきたことと全然違いました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投14 RT @IWJ_ch1: 14.山内氏「アメリカの捕虜になった時、母が『毒が入っているから』とお菓子を食べるなと言いました。『神の国』だというような合理的でない発想。『先手必勝でハワイの真珠湾を落とせる』と山本五十六は言ったかもしれないけど、野蛮な精神主義ですよ」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投15 RT @IWJ_ch1: 15.山内氏「負け戦と分かっているのに、真珠湾までのこのこ行くから、沖縄も、広島もやられた。身の程を知らない。相手を侮った日本は東京大空襲も地方の都市も皆攻撃された。敗戦後の日本政府の努力もなされないまま今日まできてしまった」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投16 RT @IWJ_ch1: 16.山内氏「アジアの国々に対する総括もされていない。日本は、させてはいけない人を首相にしてしまった。浅い迎合的な思想が日本人にはまだある。これは日本外交のアジアの国々との関係も悪化させている要因です」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投17 RT @IWJ_ch1: 17.山内氏「平和外交でアジアの国々をリードしていける存在にならないと。歴史の過去と現在とを認識した上で、今後を考えていかないといけない。それをできていないのが安倍首相です」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投18 RT @IWJ_ch1: 18.岩上「読谷というところが基地というところから脱却していったという話がありますね」山内氏「アメリカの海兵隊が沖縄に来ることになって、読谷も接収されていくということになりました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投19 RT @IWJ_ch1: 19.山内氏「アメリカの独立宣言には幸福追求権、人権、言論の自由がある。私たちも同じpeopleでしょと抵抗した。退学まで追い込まれたが、ひめゆりのナカソネ先生が東京へ渡り石垣出身の早稲田大学の先生が転校の手続きをしてくれました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投20 RT @IWJ_ch1: 20.山内氏「東京で沖縄の運動をしたら、帰りのパスポートが出なかった」岩上「緊迫感があったんですね」山内氏「読谷村の青年団を代表して残波岬のミサイル発射に反対する集会を開いて、『パスポートを出さない』と、嫌がらせも受けました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投21 RT @IWJ_ch1: 21.山内氏「1952年、読谷村全体の85%は米軍基地でした。その後帰村運動をして、私が村長に就任する1974年は74%。訓練事故で小学生や女性が死亡することがありました。戦後、たびたび人権が侵されていた。基地に脅かされない安全な村を作ろうと」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投22 RT @IWJ_ch1: 22.山内氏「教え子たちが私たちのところに押しかけてきました。『先生、私たちと一緒に立ってください』と。若い人の声、可能性を無視してはいけないと、決意を固めました。総決起集会を開くその日まで教員でしたので、その日の午後に退職届を出しました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投23 RT @IWJ_ch1: 23.山内氏「20年近い運動を通して、憲法にあることを、この村で実現しようと訴えた。教師を辞めて入ったんだから後には引けないと。憲法の3原則を守ると。255ヘクタールの読谷飛行場を取り返す、と唱えたら、保守系の議員から『非常識だよ』と言われた」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投24 RT @IWJ_ch1: 24.山内氏「しかしこれは人為的に作られたものだから、自然にできたものではないんだから、人が解決するもの。飛行場を撤去するロードマップの道筋を作るまでやめないと言いました。圧倒的な支持を得られて、24年間、6期村長を続けました」
岩上安身 @iwakamiyasumi
連投25 RT @IWJ_ch1: 25.山内氏「青年たちは運動場を、老人たちは福祉センターを作ってくれと言ってる。まず基地の中に運動広場を作る計画を立てた。基地の工事は60%完了していたが、文化村を作る構想があったので、お年寄りと座り込みをやりました。彼らも責任を感じていた」
残りを読む(31)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?

ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする