- ueda_shinji
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#jhaiku http://weekly-haiku.blogspot.com/ むずかしいことはわからんけど、俳句は虚構だと思うよ。ノンフィクションには向いていない形式。例えば写生は、虚構のネタ探しの一方法。
2010-10-03 08:14:44むずかしいことはわからんけど、ジョン・ルーリーを気取ることにしようと思う一日かな(字余り) RT @rockets_yamada 「笑って許して」は笑った。 http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/10/99.html
2010-10-03 08:27:05@10_key 俳句は虚構の話、誰かが「後世の人から見たらわれわれはみな「子規派」ということになる」と言っていましたが、自分も「書いたもの」が透明化して「対象」が残るという、近代写実主義の理想を前提として、俳句を見ていたのだろうか、と。
2010-10-04 00:32:43http://bit.ly/b8kH0I 〈桃太郎密かに桃の実を食し・すずきみのる〉にフェイク感。それなら、桃つながり・みのるつながりで〈中年や遠く実れる夜の桃・三鬼〉にも、ばりばりのフェイク感があるなあ。 #jhaiku
2010-10-05 12:09:06たとえば俳句を窓硝子にたとえてみる。窓硝子を通して、人は外の世界を見る。誰も窓硝子そのものを見る人はいない。でも窓硝子が汚れていたら、景色を見ていても気になる。だから、外を見るのに気にならない程度に磨いておかなきゃいけない。・・・でも「窓開けちゃえば?」といわれたら終わりだ。
2010-10-05 16:18:51@kono_saki 窓を開けても空気があるので、通して見るフィルターの屈折率が変わっただけとも言えますね。モノ=景色の本質を見る目を持つ生き物は居ないので、俳句を通して見るか目を通して見るかというツールの違いという言い方もできます。
2010-10-05 16:48:36俳句よりも、俳句形式を窓硝子に喩えた方がしっくり来るように感じました。読み手には、俳句(窓からの景色)を読むときには、形式(窓硝子)のことなど気にせずに読んで貰いたい、と私は思います。 RT @kono_saki: たとえば俳句を窓硝子にたとえてみる。
2010-10-05 17:30:07な・る・ほ・ど! RT @nakayama_awa @kono_saki 窓を開けても空気があるので、通して見るフィルターの屈折率が変わっただけとも言えますね。モノ=景色の本質を見る目を持つ生き物は居ないので、俳句を通して見るか目を通して見るかというツールの違いという言い方もでき
2010-10-05 18:01:11@ogawashunkyu @kono_saki でも、それだと俳句形式(窓ガラス)と俳句(景色)が別にあるようになってしまう。俳句が窓で、景色が「価値」(色価という意味で使うvalue)というのが、サキさんがはじめに言いたかったことに近いかも。(これ、近代的リアリズム)
2010-10-05 20:04:49@10_key @kono_saki そして、これは自分がなぜ http://bit.ly/b8kH0I この記事で(失礼にも)いくつかの作品を「フェイク俳句」と感じたかに関連する話題なのですが、ちょっとご飯食べてきます。
2010-10-05 20:08:32@ueda_shinji フェイクって、失礼でもない。褒め言葉。「フェイク」のセンスのない人って、かわいそーだもの。
2010-10-05 20:11:47窓って、媒介イメージかなあ。俳句は、媒介であることをやめ、それ自体にプンクトゥムを備える(写真と同じ) >cf バルト「明るい部屋」を読みなはれ、皆の衆。
2010-10-05 20:16:00