佐藤正美Tweet_20140101_15

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佐藤正美 @satou_masami

我々の理性が衰弱した時、その兆候が何に現れるかというと、思考(推論)の弱体であろう。すなわち、性急な断定という形をとる。それは、外見上、断定であるがゆえに明快な感を与える。その明快さは、証明された明瞭さを聊かも持ちあわせてはいないが、我々はこの明快さに騙されやすい。

2014-01-04 17:56:42
佐藤正美 @satou_masami

いかに多くの知識をもって臨んでも、「現実」が我々に教えるものは、唯一無二のあるがままの様相である。パターンは、思考にとって大切なものにちがいないし、それらをもって比較できる訳だが、逆用されると却って害をもたらす。私の怖れるのは、軽信された法則だけで物事を眺めて判断する事である。

2014-01-04 17:57:21
佐藤正美 @satou_masami

自説に対して自ら絶えず疑っていない様な自説は、固定観念や当為癖(「ねばならない」という考え)となる、硬直化するのである。その罠に陥らないためには、自説とは一種の「仮説」だと考えるのが正しい。

2014-01-04 17:57:54
佐藤正美 @satou_masami

新しい考えが理論によって大衆を説得するという事は、我々が考えるほど普通の事ではない。こうした説得は、実践がその後に続かぬ限り、長続きしない。大衆は、理論を要約したキーワードに一時的に右往左往したとしても、いずれ平静に返る。

2014-01-05 02:13:07
佐藤正美 @satou_masami

感動は長続きするものではなく、見事な形式をそなえた判断がそれを育てる様に指導しない限り、感動は単なる一時的な情念にすぎない。「論理」は情念を思想にまで高め、情念に衣裳(形)を与える。そうでなければ、感動をもって為された意見は、形をなさぬ情念から情念的意見への移り行きである。

2014-01-05 02:13:57
佐藤正美 @satou_masami

私は群れをなす衆に向かって語りかける事が嫌いだったので、ついぞ彼等の用語法で語った事はなかった。そして、彼等の好む言葉で語る事を避けようとする反発は、私の中で益々強くなった。このことから得る私の利益は、世間の鋳型にはめ込まれる怖れがない事である。勿論、支払った対価は大きかった。

2014-01-05 02:14:33
佐藤正美 @satou_masami

専門家でもない年老いた私がモデル論に夢中になっている様は、やはり漫画的であり、私の学習が徒労にすぎないという事も思う。しかし、還暦になったからといって、先生呼ばわりなんかされて、過去に成した事を思い出として語ったり、若手の仕事を論評したりする様になるのは死んでも嫌だ。

2014-01-05 02:15:11
佐藤正美 @satou_masami

論証は、証拠と論理によって確かにされる。システム・エンジニアは、少なくとも事業分析において、(事業的営為をいちいち観なくとも単に)証拠書類(「情報(帳票など)」)によって充分裁断が下せるはずだ。正当な「情報(すなわち符号)」らしいものすら無い場合には、モデルは存在しない事になる。

2014-01-06 01:55:11
佐藤正美 @satou_masami

いざモデルを制作してみると、書く前に抱いていたパターンが不可抗的に次々と裏切られてゆく事は、システム・エンジニアのいつも経験する事で、いまさらそれに愕く私ではないが、重立った観念を除いては、何もかもはじめからやり直さなければならない始末になる事くらいの覚悟はしておいたほうがいい。

2014-01-06 01:55:50
佐藤正美 @satou_masami

出来の良いモデルを求めているユーザが眼前にいる事、彼等の事業的営為に敬意を払わねばならぬ事、「論理」の秩序正しさ、そしてユーザの便益、すべてそうしたものが、モデルをどの様な図で描こうかという事は問題外にしても、システム・エンジニアを支えるのである。

2014-01-12 17:55:14
佐藤正美 @satou_masami

ユーザの思考のうちには、自分たちが携わっている事業的営為を、「論理」の充分な外見のもとに一度眺めたいという意志がふくまれているはずだ。彼等がシステム・エンジニアに金銭を出すのは、そうした観物をしたいという意味が多分にある。そのような意志がないユーザにはモデルは無意味である。

2014-01-12 17:55:49
佐藤正美 @satou_masami

システム・エンジニアが自分の制作したモデルについて客観的判断を持つ事ができるのは、それを書き終えての事であって、一見自由な思考にある様にみえる制作中の状態は実は最も論理に拘束された状態である。論理は論理にとどまり、たとえ構成が立てられても、次に事実的な真を験証しなければならない。

2014-01-12 17:57:25
佐藤正美 @satou_masami

凝視を省いた速断の単純さは実に得やすいが、熟考を重ねた証明の単純さは何層倍もむつかしい。個人の解釈(個性)からそのまま生じた判断は個性の面白さに頼る事になる。それは一見いかに論理的に見えても、結果として「関係」や連続(原因-結果)の法則を無視している。

2014-01-12 17:58:06
佐藤正美 @satou_masami

業務分析の発達以来、我々は敢えて事業を知り尽くしていると云わないまでも、事業の世界に慣れているという迷信を抱く様になった。業務のいわゆる青写真がパターン化されるに及んで、我々は業務の機械化と部分的パターン化を得たのである。つまり業務の全体感(「関係」)が失われたのである。

2014-01-12 17:58:35