佐藤正美Tweet_20130501_15

0
佐藤正美 @satou_masami

事業で使われている「情報」は、事業に関与した人たちの体験を記述したものとして、いつも眼前に客観物としてある。「事業」の記述は、「情報」自体が持っている。この事実を率直に認めた後は、システム・エンジニアには、ただ「情報」を分析する困難だけがあるはずではないか。

2013-05-01 16:08:37
佐藤正美 @satou_masami

事業構造は──「情報」(事前報告・進捗報告・事後報告)が伝える事業構造は──、現象的には極めて複雑であると同時に論理的には極めて単純な構造である。その両極端の間をモデル制作理論は振り子の様に規則正しく揺れている。

2013-05-01 16:09:51
佐藤正美 @satou_masami

私がモデル制作技術の探究の果てに辿り着いた先は、数学では極々平凡な技術であった。モデル制作の仕事を始めたシステム・エンジニアは、この平凡な事を竟(つい)には感じ、始末を強いられる。私の様に独創を夢みて平凡に終わって絶望を感じたヤツは、感想的批評文を綴って絶望を逃れるしかない。

2013-05-04 05:35:31
佐藤正美 @satou_masami

私がモデル論を云々するのは、私は在来の図法に反抗したのでもなければ、新しいモデル技術を発明したのでもない。従来のシステム分析というものが信じられないという意識──事業分析がSEの「解釈」に屈従する理由はないという意識──を語っているのである。

2013-05-04 05:36:34
佐藤正美 @satou_masami

拙著「論考」「いざない」を出版した時、不親切な(独断的な?)著作だと読者から叱られた。モデル論では親切な説明が難しい。だが、SEたちはモデル論にどんな親切な説明を期待しているのだろうか。親切は1つしかない、モデルの要件を説明するしかない──「論理」の完全性・健全性を語るしかない。

2013-05-07 01:24:46
佐藤正美 @satou_masami

言語(構造言語)を形式的言語・形式的論理・形式的理論を使って数学的に再構成する際、(数学的構造という)集合を前提にして(論理式という)記号列のあいだの関係を研究する分野がモデル論である。それに対して、形式的論理・形式的理論を(有限の演算の中で)研究するのが証明論である。

2013-05-07 01:25:45
佐藤正美 @satou_masami

モデル論・証明論の基礎になっているには、「集合」と「計算可能」という概念である。それらを研究する分野が、それぞれ、集合論と帰納的関数論である。したがって、モデル論を語るには、数学基礎論(モデル論、証明論、集合論、関数論)を語る事になる。一般読者にとってモデル論が面白い筈はない。

2013-05-07 01:26:17
佐藤正美 @satou_masami

実践をはなれて技術はない。実践の技術とは平凡なものだ──少なくとも、単純な技術にしようという狙いは制作した人にはある筈だ。TMを習った若いSEが次の様に言った──「こんなのが方法論ですか」。ならば理論を語りましょうと思って、「論考」「いざない」を出版したら、難しいと不評だった。

2013-05-07 01:26:54
佐藤正美 @satou_masami

SEたちは、平凡な技術には飽き飽きして、気の利いた論を聴きがっているのではないか。一つ一つの技術は、ことごとく平凡である。そうしないと実践では使い難い。平凡こそ実践の最大の性質なのである。しかし、それらを組んで構成される産物は一筋縄ではいかない。平凡の集積が平凡という訳ではない。

2013-05-07 01:28:13
佐藤正美 @satou_masami

事業的営為は、或る形式の「情報」を持たされ共有されるが、「情報」は営為の結果にすぎない。事業は実際にはそういうふうに営まれてはいない。「情報」を読んでも、或るユーザは他のユーザがどのように仕事しているか知らない。しかし、「情報」を介して互いに結びついて孤立する事がない。

2013-05-08 10:26:36
佐藤正美 @satou_masami

多くの切口をみせる事業をSEは一切「解釈」を入れないでそのまま表現したい、少なくとも事業が成り立っている状態を写す様に描きたい。そのためには、事業の中の様々な「情報」が確定した形に再構成され配置されなければならない。事業的営為は背後から観察し得るのみだという事実を承認することだ。

2013-05-08 10:27:03
佐藤正美 @satou_masami

事業的営為に従事しているユーザは、申し送りのために「情報」を遺す。ユーザの仕事のやりかたは消え、成した結果がのこるという仕掛けである。この様な「情報」によって、事業的営為は、共有的な事業の最も純正な姿をとる。ここに事業分析のモデルの思想がある。

2013-05-08 10:27:49
佐藤正美 @satou_masami

「情報」には、ユーザがいかに事業を為しているかという一切の細工が見えない。SEが躓く様なユーザの具体的手続きが現れない。事業的営為を為すための熱意も苦労も語られていない。SEは、事業的営為の純正な「関係」の表現に接するだけである。関係性は、あらゆる科学の究極の目的である。

2013-05-08 10:28:15
佐藤正美 @satou_masami

先入観を持たず現実(事業)を眺めたら、ユーザは「情報」によってこそ仕事をしているという光景が映るはずだ。SEたちは、具体性とか現実性とかいう概念に縛られてユーザの実際の営為を掴んで客観的世界と思い込みながら、実は(定まらぬ切口の)抽象的世界に入り込んでいるのではないか。

2013-05-08 10:52:41
佐藤正美 @satou_masami

「情報」を事業分析の題材とするのがいいか悪いか問題ではない。事業というものはSEの才知を超えている。「情報」がユーザの体験を記したものなら、SEがそれを読めばユーザの体験を知る事ができる。題材そのものが持っている事実性を軽視して、果たしてSEは事業を正確に分析し得るか。

2013-05-10 00:22:35
佐藤正美 @satou_masami

「情報」にも様々な比重があって、「情報」が社会化・歴史化するにつれて、その比重を増す。「情報」を題材とすべきかすべきでないかは、それがユーザの体験の正当な記録となるかならないかにかかっている。SEが眺める事業よりもユーザが体験した事業の記録・報告のほうが信頼できる題材ではないか。

2013-05-10 00:23:12
佐藤正美 @satou_masami

システム分析の目的は、「情報」(伝票等)を事業的 reality に改変する事である。事業事情が「情報」に反映している事実性と事業事情をモデル(論理的形式)に表現するという翻訳可能性とが べつべつに考えられているのではないか。モデル制作とは、事実性の翻訳可能性をいう。

2013-05-14 23:37:14