K

かつて、Kという男が居た。
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伊月遊 @ituki_yu

    ―――声。 声が聞こえる。 子供の声だ。 男も、女も居る。 沢山、居る。 笑っている。 全員が、楽しげに。 笑っている。 一部も他の色は混じらず、他の物も交じらず。 声はただ楽しげに満ちている。 それは、暖かな物だった。

2014-01-22 22:47:30
伊月遊 @ituki_yu

  その声の中心に、自分と、もう一人が立っている。 自分は、ああ、”いつも”の格好だ。 赤の帽子に丸い眼鏡を着けて、滑稽な、ピエロのような。 もう一人はずんぐりむっくりとした、熊の着ぐるみを着た、大柄の男。 相方だ。

2014-01-22 22:50:35
伊月遊 @ituki_yu

笑っている。 二人が笑い、周りも笑う。 笑い合う。 いつもの光景だ。いつもの。 暖かで、木漏れ日の様に心地よい。 幸福な世界がそこにあった。

2014-01-22 22:52:33
伊月遊 @ituki_yu

  「・・・」 夢はそこで覚めた。 無意識と意識の混濁した世界から、徐々に自分が帰ってくるのが分かる。 拡散した沢山の粒が収束し、やがて一つの点へと纏まってゆく。 そして最後に残ったのは、空虚な天井の木目を眺める自分自身の姿であった。

2014-01-22 22:54:30
伊月遊 @ituki_yu

息を吐く。 喉に鈍い痛み。酷く渇いている。 軋む身体をゆっくりと動かし、布団から芋虫の様に這い出て、近くに置いてあるペットボトルの茶を一口飲む。 それからもう一度息を吐いてから、Kは静かに目を閉じる。 夢の続きのように瞼の裏に写る映像。 それらはかつてのK自身である。

2014-01-22 22:57:05
伊月遊 @ituki_yu

この夢を見ると、決まって必ず、喉が渇く。 既に何度も見ていて、今年に入ってからは特に回数が増えている。 それが何故だかは分からないが、この夢を見る理由は明らかであった。 「―――まだ、諦め切れないのかな、僕は」 呟きは空に溶ける。 それは、既に理解している事の反芻に過ぎない。

2014-01-22 23:00:36
伊月遊 @ituki_yu

あれからもうすぐ一年も経とうとしているのに。 しかし、あれは終わった事だと自分に言い聞かせる度に、口に何とも言えぬ苦い味が広がるのだ。 Kは知っている。それは後悔という物の味である。

2014-01-22 23:02:39
伊月遊 @ituki_yu

『でっきるっかーな、でっきるっかーなー、さてさてホッホー』 軽快な音楽が部屋に響き、Kを思考の中から引きずり出す。 その曲は、Kが尊敬する師であり、そしてかつての先輩を表す物である。 かつては目を輝かせて聞いたその曲も、しかし今は、どこか色褪せた物となってしまっていた。

2014-01-22 23:05:02
伊月遊 @ituki_yu

曲が変わったのではない、自分の色々な物が変わってしまったのだろう。とKは思う。 Kは無言のまま、その曲を鳴らしている携帯電話を手に取る。 画面に写っている番号は良く見知った物であった。 通話ボタンを押し、耳に当てる。

2014-01-22 23:07:36
伊月遊 @ituki_yu

『よう、元気か』 「・・・まあ、人並みにはね」 人並みの元気さというのがどういう物かは知らないが、Kは取り敢えずそう答える。 「お前らしい」と電話越しに苦笑の声。

2014-01-22 23:10:00
伊月遊 @ituki_yu

『いつもの所に居るんだが、来ないか』 「・・・ああ、行くよ」 『了解。待ってるぜ』 たったそれだけで電話は切れる。 自分達には、それだけで十分だった。 なにせ相手は十年来の親友で、相棒だった彼なのだから。

2014-01-22 23:12:37
伊月遊 @ituki_yu

  人の声。 人の声。 沢山の人間の声がそこにあった。 楽しげに笑い合う声や、悲しげに語る声。 怒鳴り声。沢山の声。 雑多な人混み、その中をKは歩く。 「よう、こっちだこっち」 沢山の声の中に聞き覚えのある物が混じる。

2014-01-22 23:15:34
伊月遊 @ituki_yu

周りを見ると店の奥、煤けた壁に押し付けるようにした小さなテーブルで、見知った男が手を振っていた。 手を振り返して近付き真正面の席に座ると、若い女性の店員がやってくる。 適当に注文して、それから正面の男へと振り返ると、いつもの表情で彼はそこに居た。

2014-01-22 23:18:15
伊月遊 @ituki_yu

「先に始めてたぜ」と、氷と透明な液体が入ったグラスを軽く掲げる。 恐らくは彼の好物の芋焼酎だろう。一緒に飲む度に、彼は必ず頼んでいるのだ。 「随分と寒くなってきたな」 「うん、妻の実家の方で雪が降ったそうだよ」 「雪かあ。もうそんな季節なのか」 頷きながらグラスを傾ける彼。

2014-01-22 23:20:50
伊月遊 @ituki_yu

程なくして自分の頼んだウーロンハイが届くと、互いに笑みを浮かべて、互いにグラスを向け合う。 「乾杯」 チン、とグラスから小気味の良い音が響く。

2014-01-22 23:25:39
伊月遊 @ituki_yu

彼とこうして飲むのは何度目の事だったろうか。恐らくは両手の指では足りない程だ。 以前は仕事に支障をきたさない為、わざとプライベートでは接しないようにしてきた。 その結果、10年以上の相方時代より、こうして仕事を止めた時の方が互いを良く知る様になったのは、なんとも皮肉な話であった。

2014-01-22 23:31:11
伊月遊 @ituki_yu

「新しい仕事が決まったよ」 「また、着ぐるみかい?」 「ああ」 「そうか、あれから結構仕事が入るようになったね」 「お前もな。この前のバラエティ、見たぜ」 「よしてくれよ。ああいうのは僕のガラじゃない」 そう言って、Kは気恥ずかしそうに苦く笑う。

2014-01-22 23:33:42
伊月遊 @ituki_yu

以前Kと彼は、とある長寿教育番組を持っていた。 彼らはそれぞれ進行役とそのアシスタントという立ち位置だった。良いコンビであり、そして良い番組であった。 人気もあった。ファンも居た。でなければ10年も番組は続かない。 だが彼らはその仕事を止めた。

2014-01-22 23:36:10
伊月遊 @ituki_yu

理想と思える環境を捨てた理由は単純で、Kの老いによるものであった。 どんなにやる気があろうとも、年月には逆らえない。それは人間もであるし、あるいは番組にも同じ事が言えた。 彼らは長く、本当に長く仕事をやっていたのである。 「またね、夢を見たよ」 「いつものか」 「そう」

2014-01-22 23:38:55
伊月遊 @ituki_yu

「そうか」と、小さな暗い余韻を残しながら、彼は目を閉じグラスを傾ける。 分かっている。彼が言いたいことは分かっている。 番組を止めたのはプロデューサーの提案である。そして、それを受け入れたのはK自身の判断であった。

2014-01-22 23:41:29
伊月遊 @ituki_yu

老境に差し掛かったKの身を案じ、いよいよという所で止めてくれたのだろう。あの人は恩人であり、良き上司でもあった。 それが解っているからこそ、そして己自身、身体の衰えを感じていたので、それを受け入れたのだ。 しかしこの胸に残るしこりは何なのだろうか。 頭では理解出来るが、しかし。

2014-01-22 23:44:57
伊月遊 @ituki_yu

「実はな」 「ん?」 「俺も、見てるんだ。同じ様な夢をな」 からん、とグラスが鳴る。 暫しの間。 「何度」 「二回。―――俺も同じなのさ、お前とな」

2014-01-22 23:48:55
伊月遊 @ituki_yu

彼がこんな事を言うのは、今回が始めてだった。 「うん」とだけ返して、続く語を殺して、それと一緒に酒を飲む。 飲み込んだ、戻りたい、という語が、アルコールと共に胃の腑を熱くさせる。 「だがな」 と焼酎で唇の先を湿らせてから、彼はこちらを見やる。

2014-01-22 23:51:25