和尚と若僧3

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伊月遊 @ituki_yu

  ずぶり。 ずぶり。 足を入れて、抜く。 雪が吹きすさぶ雪原である。 腰まで有りそうな雪の中を、男が歩いている。 顔全体が髭で覆われた、熊の様な大男である。 何かに脅える表情。 時折後ろを見、再び歩き出す。

2014-01-29 23:01:35
伊月遊 @ituki_yu

  ―――ん? 男の眼前にぽつりと何かが有る。 それは木立の中に有る、小さな寺であった。 助かった。 男は寺に向かって歩き出した。

2014-01-29 23:04:37

 
 
 
 

伊月遊 @ituki_yu

  ぱち。 ぱちり。 木の爆ぜる音。 囲炉裏である。 古ぼけた薄暗い、木造の、畳を敷き詰めた部屋。 その真中にある囲炉裏が、部屋と一つの影をゆらりゆらりと照らしている。 影は老いた僧。 薄汚れたよれよれの袈裟を着た老僧である。 老僧は赤ら顔で満足そうに笑っている。

2014-01-29 23:09:24
伊月遊 @ituki_yu

「―――今日は、吹雪か」 老僧は囲炉裏に燃べていた徳利を手に取る。 徳利の蓋が抜かれる小気味の良い音が、部屋に響く。 老僧は脇に置いてあった猪口に、徳利を傾ける。 その時であった。 がら、がら、がら。 戸の開く音。 老僧は音の方を見る。

2014-01-29 23:13:29
伊月遊 @ituki_yu

男だ。 熊の様な髭むくじゃらの大男がそこに居た。 息が荒い、口元がぶわりぶわりと白く染まる。 「こんな寒い中、良う来なすった。ささ、火に当たりなされ」 老僧は招き入れる様に、手を上げる。 男は肩の雪を払い、座敷に上がった。

2014-01-29 23:16:20
伊月遊 @ituki_yu

「いやぁ、助かった」 そのまま囲炉裏の近くにどっかりと胡座をかくと、頭を掻きながら破顔する。 その男に、老僧は猪口を差し出した。 「暖まりますぞ」 「これはすまん」 男は頭の後ろに手をやって、猪口を受け取る。 老僧は男の猪口に酒を注ぎ、自分の猪口にも酒を注ぐ。

2014-01-29 23:20:23
伊月遊 @ituki_yu

老僧は一気に猪口の酒を飲み干す。 満足そうに息を吐く。 「極楽、極楽」 ぱちん。 木が一つ爆ぜ、火の粉が飛ぶ。 男はじっと猪口の酒を見つめている。 「旅の方かの」 老僧は猪口に酒を注ぎながら言う。 「―――ああ、まあ」 男は何かに躊躇いながら、掠れた声で答える。

2014-01-29 23:24:09
伊月遊 @ituki_yu

老僧は表情を崩さずに男の顔を見つめる。 「こんな雪の日にこんな山奥まで、何かありましたかな」 少しの間。 部屋に酒を啜る音が響く。 老僧は満足そうに息を吐く。 「言いたくなければ、良いですじゃ。人間誰しもそういう事は有る」 男は黙って囲炉裏の炎を見つめ、酒を軽く啜る。

2014-01-29 23:28:06
伊月遊 @ituki_yu

「人間、旨い飯を食い、旨い酒を飲み、笑って騒ぐ、それだけで良い」 どさ。 重い物の落ちる音。 恐らくは、雪であろう。 「なぁ、和尚さん」 男は掠れた声で呟く。 「あんた、徳を積んだ偉い坊さんなんだろ」 老僧は、とんでもない、と頭を左右に振る。

2014-01-29 23:32:18
伊月遊 @ituki_yu

「わしゃあ戒律も守れない、ただの生臭坊主ですじゃ」 ほれこのとおり、と老僧は酒を啜る。 へっ。 男は軽く鼻で笑う。 「―――なぁ和尚」 男は猪口の酒を一気に飲み干し、息を吐く。 「俺は、人を殺しちまった。この手で、な」

2014-01-29 23:36:21
伊月遊 @ituki_yu

ぱちり。 木片が爆ぜ、火の粉が飛ぶ。 老僧は自分の猪口に酒を注ぎ足す。 「―――なあ、旅のお方」 老僧は徳利を男の前に差し出す。 男は黙って猪口を持った。 男の猪口に酒が注がれ、徳利が引っ込められる。 老僧は男を見つめる。 「一つ、この坊主の説法を聞いていきなされ」

2014-01-29 23:40:03
伊月遊 @ituki_yu

  囲炉裏の炎が、二人を照らす。 「わしがまだ十六の頃じゃ」 老僧は酒を軽く啜る。 「わしはその頃、丁度、海軍学校に入学したばかりじゃった」 「和尚が海軍か」 「うむ」 男はじっと老僧を見つめている。

2014-01-29 23:44:14
伊月遊 @ituki_yu

「まぁそれでな、健康診断が有ったんじゃよ」 がた、がた。 強い風が吹き、戸が揺れる。 「で、看護婦に紙コップを渡されて『これに尿を入れてきて』と言われての―――」

2014-01-29 23:47:53

 
 
 
 

伊月遊 @ituki_yu

  なんという、なんという事であるか。 尿、である。 尿が今にも溢れんばかりに、並々と、紙コップに注がれている。 青年はその紙コップを、震えながら見つめていた。 青年の額には、じっとりとした脂汗が浮かんでいる。

2014-01-29 23:51:41
伊月遊 @ituki_yu

これは、まずい。 尿の水面がゆらゆらと揺れている。 まずい。 が。 にぃ。青年は口端を吊上げる。 このまま―――。 このまま、提出してしまおうか。

2014-01-29 23:55:21

 
 
 
 

伊月遊 @ituki_yu

  「で、提出しちまったのか」 「そうじゃ」 ちりちりと木片が朱く染まっていく。 「今思えば、何故そんな事を思ったんじゃろうか」 老僧は酒を啜る。 「きっと緊張してたんだろうよ」 「そうかのぅ」 そうじゃのう、と呟き、猪口を傾ける。 「ま、それでな」

2014-01-29 23:59:24

 
 
 
 

伊月遊 @ituki_yu

  ごぶり。   看護婦は喉に溜まった唾を飲み込む。 この男、何を考えているのだ。 看護婦の目の前には、並々と注がれたコップが有る。 尿が、である。 看護婦の背中に虫が這う様な感覚。

2014-01-30 00:03:21
伊月遊 @ituki_yu

にぃ。 看護婦は太い笑みを浮かべる。 「―――おめぇさん、こりゃあ何の真似だぃ?」 青年はがくがくと震えていて、呼吸をするのも困難になっている。 「こりゃあ、入れ過ぎだぜ」 看護婦は更に口端を吊上げる。

2014-01-30 00:06:51
伊月遊 @ituki_yu

お―――。 青年が一言呟く。 数秒の間、そして。 おきゃぁぁぁぁあああああああああああああああああ 病院に青年の怪鳥のごとき咆叩が響き渡る。 青年はこれ以上できない程に、口端を吊上げる。

2014-01-30 00:11:12
伊月遊 @ituki_yu

ふひ。 ふひひひ。 ぶふ。 ひひ。 ぶふひはひひは。 青年は激しく痙攣しながら、狂った様に笑い出す。 既に眼は何処も見ておらず、濁った瞳は虚空を見つめている。

2014-01-30 00:15:02