短編小説『いつものアングル』(2006年) ヨーロッパの新婚夫婦は、まず新居に飾るための絵画を購入するものらしい。入籍した九年程前、妻はそんな話を私に聞かせ、手を引っ張って、とある画廊へ連れて行った。その時買った印象派風の絵は、玄関に飾ってある。 #uangle
2010-10-23 17:56:22しかし、もうここ二、三年は目をやることもなくなった。今朝、その絵の方を見たのは、一匹の蜘蛛が這っていたからだ。蜘蛛が額縁を越えて行った後、何の気なしに見つめていると、奇妙な違和感に襲われた。簡素な服を着た男と女が抱擁しあっている足元に、 #uangle
2010-10-23 17:58:17血のように鮮やかな赤をした花が、緑の野に楕円形に咲いているのだが、その輪が大きくなっているようなのだ。花が増えたらしい。妻を呼んで確かめようと思ったがやめ、そのまま出勤した。 #uangle
2010-10-23 17:59:45「俺、最近どこか変わったように見えるか?」 その日の夕食時、妻に尋ねた。 「いえ、どこも。それよりあなた……」 息子の学校の成績が芳しくないことを話しはじめる。 #uangle
2010-10-23 18:03:42その日から、絵は変化しだした。男の後ろの方にあった岩が、どんどん画面の手前に近づいている。ごつごつした岩肌が、はっきり確認できるまでになった。どうやら男の背面へと、絵の「中」が動いているようだ。絵のフレームが、カメラアイででもあるというのか。 #uangle
2010-10-23 18:06:26絵のアングルが変わるところを見てやろうと、何度も夜中に起きては玄関に確認に行った。しかし見ている時は、何も変化が起きない。いっそ寝室に飾ることを妻に提案しようとも思ったが、よしておいた。 #uangle
2010-10-23 18:07:37週末、記憶をたぐり寄せながら、あの画廊を訪ねた。初老の主人はまったく私のことを覚えていないようで、それどころかそんな絵を売ったおぼえもないと言う。売却リストにも記録がないそうだ。いまいましげに私を睨んで、忙しいから帰ってくれと呟き、主人はそそくさと #uangle
2010-10-23 18:09:38店の奥に消えた。 絵のアングルは日ごとに変わり続ける。男の背中を回りこんで、もう何日かすると右半身が見えてくるはずだ。そしてある日の朝、私は知った。男と女は愛し合っていたのではなかったということを。 #uangle
2010-10-23 18:11:23男の右手に握られた短刀が、女の脇腹に深く食い込んでいた。足元に咲いている花々は、血で染まっていたのだ。 妻も息子も、まったく絵の変化には関心がないらしく、私もまた特に何も話しはしなかった。 #uangle
2010-10-23 18:13:05やはり妻を呼ぶのはよして、出勤しようとドアを開けたとき、足に細い糸がからみついているのに気づいた。よく見ると、蜘蛛の糸だ。そういえば、風に飛ばされて宙を漂う蜘蛛の糸のことを「悪魔の涎(よだれ)」と呼ぶのだったか……。 (END) #uangle
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