中学生でも読めるフーコー『性の歴史Ⅰ』(第四章「性的欲望の装置」〈目的〉の部分)

フランスの哲学者ミシェル・フーコーの著作である『性の歴史Ⅰ知への意志』を中学生でも読めるように要約したもパート6です。
人文 フーコー フランス現代思想 要約 性の歴史
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zutabukuro @ClothSack
中学生でも読めるフーコー『性の歴史Ⅰ』プロジェクト、第四章「性的欲望の装置」の〈目的〉の部分を連投しますかね~
zutabukuro @ClothSack
まず、目的、つまりなぜこのような研究をするのかをお話しようと思います。私にはある不安があります。それは今まで私がしてきた議論についてのものです。私はくり返し、数世紀前から西洋社会で展開されてきたのは否定的な権力の動きではなかった、と述べてきました。(続く)
zutabukuro @ClothSack
実を言えば、性が否定されていなかったという主張は、新しい主張ではありません。だいぶ前から、ある種の精神分析家(特殊な方法で行うカウンセリング中心とする精神科医)が同様のことを言っていました。(続く)
zutabukuro @ClothSack
彼らは権力を欲望を否定するものとはとらえずに、権力に基づく法が欲望を成立させると考えました。これは、学校にある消火栓の警報ボタンを押したくなってしまうように、法律によって何かをしてはダメだと言われるとそれをしたいという欲望が生まれるということです。(続く)
zutabukuro @ClothSack
彼らに言わせると、権力は欲望のあるところにすでに存在し、後からなされる否定に権力を見るのは間違いであって、権力がないところに欲望はない、と言うことになります。   私の不安とはここで現れた「法」に関するものです。(続く)
zutabukuro @ClothSack
私はこれまで、否定という言葉で法や禁忌、検閲などを一緒くたに語ってきました。(続く)
zutabukuro @ClothSack
これは、権力の中心的作用は立法、つまり「法」であると考えている人たちにとって、「法」である権力を軽んじている、否定という言葉であなたに都合の悪い法と権力の問題を無視している、というように映ることでしょう。私の不安とはまさに、このように思われてしまうことなのです。(続く)
zutabukuro @ClothSack
さて、以下に続く私の調査の目的ですが、それは性の問題とも深く関係していた権力についての分析学を打ち立てるということです。具体的に言えば、権力の関係が動いている領域と権力を分析するための道具立ての提示になでしょう。(続く)
zutabukuro @ClothSack
先ほどの不安との関係で言えば、この分析学は権力とは法であるという「法律的-言説的」な権力についての考え方から自由になることによって可能になるものだと思います。(続く)
zutabukuro @ClothSack
なぜ、「法律的-言説的」な権力についての考え方から自由必要があるかといえば、この考え方が否定的権力と欲望が成立するためには法が必要だという2つのテーマを支えているからです。(続く)
zutabukuro @ClothSack
前者は本能的な欲望を対象とする分析、後者は欲望の法に基づく分析であって、2つとも権力そのものというよりも、欲望と権力の力関係を考えるやり方です。   では、ここで言われている「法律的-言説的」な権力についての考え方、とはどのようなものなのでしょうか。(続く)
zutabukuro @ClothSack
それについて次の5つが挙げられます。  第一に否定的な関係とうことです。これは今までの議論で見られたように、権力は不在や欠如、何かをしてはダメのように、権力は否定的なものしかないという考え方です。   第二に挙げられるのが規律の決定機関ということです。(続く)
zutabukuro @ClothSack
権力といえば法だという人のように、権力は合法・非合法などの決まりを作り、その決まりを宣言することで自らの力を行使するとい考え方がこれです。   三つめにあたるのが、禁忌のサイクルです。例えば権力がある行為を禁止したとしましょう。(続く)
zutabukuro @ClothSack
この禁止は、ある行為をするな違反したらそれを消し去る(逮捕する)、それが嫌ならある行為をするな、というという2つのサイクル関係よって成り立っています。(続く)
zutabukuro @ClothSack
権力はある対象、例えば性をこのようなサイクルを通じて、闇と秘密の中でしか存在することを許さないものである禁忌としてしまう、という考え方がこの禁忌のサイクルなのです。  四つめに挙げられるのが、検閲の理論です。(続く)
zutabukuro @ClothSack
検閲とは、本が出版される前にその内容を権力が確認することであり、自分にとって都合の悪い本の出版をやめさせたり、都合の悪い表現を消させるために用いられてきました。(続く)
zutabukuro @ClothSack
つまり、これは権力とは沈黙(何かをしゃべるな)を強いるものであり、自分にとって都合の悪いものの存在を許さない、という考え方です。   そして、最後に装置の統一性が挙げられます。(続く)
zutabukuro @ClothSack
これは、今までに挙げたものも含めて、無数の対象に対する権力の行使はすべて法律のもとでの服従と形でなされる、という考え方です。   この「法律的-言説的」な権力の考え方は一般的であり、皆さんにもなじみ深いものでしょう。(続く)
zutabukuro @ClothSack
しかし、権力によって、性に関して体系だって言われたことの増加がなされたように、権力には積極的な側面もあります。では、なぜこのような権力についての考え方が受け入れられ広まっていったのでしょうか。それについて、2つの理由が考えられます。 (続く)
zutabukuro @ClothSack
第一の理由として考えられるのが、戦術的理由です。我々の社会において、権力は自由に対して引かれた単なる限界(否定)であり、自由のある部分は手付かずのまま残っているとされなければ権力(論)が受け入れられないので、戦術的に権力は「法律的-言説的」なものとされているということです(続く
zutabukuro @ClothSack
例えば、学園祭の出し物を先生に何から何まで決められているというよりも、先生はやってはいけないことの限界を示し、それ以外は自由にできる、とされたほうが先生を受け入れやすいですよね。   第二の理由として考えられるのは、歴史的な理由です。(続く)
zutabukuro @ClothSack
中世ヨーロッパの王様といえば、みなさんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。裸の王様のようにわがままだったり、自分勝手だったり、時には法律も無視してしまうように思われる方が多いでしょう。しかし、現実の彼らはたとえ自分中心であっても、法律にのっとって政治をしていたのです。(続く
zutabukuro @ClothSack
自分の考えを法律にしたという方が近いでしょうか。そこで作られた法律は、当時の行政システムの貧弱さもあってか、禁止と処罰という否定的なものを中心とする仕組みでした。  (続く
zutabukuro @ClothSack
ヨーロッパではこのような動きによって中世以降、権力の行使といえば法的権利に基づくものであり、その作用は否定的だという「法律的-言説的」な権力の考え方が広まっていったのです。(続く)
zutabukuro @ClothSack
もちろん、フランス革命などによって王政がなくなり、共和制になったとしてもこの王政的な権力についての考え方である「法律的-言説的」な権力は、権力について考える上で中心的なものでした。   しかし、実際には中世の王政時代と現在で権力の作用には大きな差があるのです。(続く)
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