愉悦列島戦国記

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翡翠@リース @Clearsky_lordes

@remirei 名瀬嘉兵衛秋吉 1550~1604 戦国時代中期の武将。守護大名 16歳で家督を継ぎ、周辺の国人領主達と争い名瀬郡を統一。幕府に献金を行い、博州の守護大名に任命される

2014-03-10 00:15:34
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@remirei また、周辺より圧迫を続けた秋人京督(百合農業)と対立。1580年の「博州崩れ」にて秋人軍5000を壊滅させ、博州の支配を確立する。 しかし、その後も度々秋人京督の侵入を受け、1588年には一時本拠地を失う事となる

2014-03-10 00:18:39
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@remirei 1590年の「両田の乱」では織田信雄側に立って戦い、宿敵である秋人京督の勢力を博州から追い、中央部へと追いやる事へと成功し、名瀬家の最盛期を作り上げた 文化人としても名高い

2014-03-10 00:20:26
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@Lily_jinro 秋人京督 1566~1633 近州の戦国大名。百合農業とも。分裂していた秋人家を統一し、さらに近州一帯を織田家の後援を得て掌握。「山科城撫で斬り」「小島撫で斬り」を行い、「紅百合公」「鬼京督」と恐れられた

2014-03-10 00:23:33
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@Lily_jinro 博州の名瀬嘉兵衛との戦いに破れ、博州での影響力を失うも、それに乗じた国人反乱を鎮圧。この時、国人領主13人を生き埋めにし、国人領主の影響力を削いだ。この時、有無をいわさず生き埋めにした

2014-03-10 00:25:42
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@Lily_jinro その為、当時の記録では「秋人の領地では首だけが無造作に道に置かれている。それは何かと言えば、京督により埋められたもの達であった。彼らは食物を与えられず、ただ餓死するのみ。ああ、末法ここに極まれり」と記される

2014-03-10 00:26:46
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@Lily_jinro 1590年に発生した両田の乱では、最初は織田上総側に立つも、洛中一帯の支配権と引き換えに信雄側へと寝返り、さらに1600年に織田上総が追い詰められると、乱の終結により中央部への影響力を失う事を恐れた京督は再び上総側に立つ

2014-03-10 00:28:33
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@Lily_jinro こうして、両田の乱においては互いの勢力に付いて離れてを繰り返しながら自身の勢力を拡張。1620年には安土へと進行し、安土城下を焼く(安土撫で斬り)

2014-03-10 00:29:46
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@Lily_jinro しかし、中央部の混乱に乗じて勢力を広げた秋人京督で合ったが、両田の乱が25年に終結すると今度は危機に陥る事となる。 この危機に対し、京督は上総の子京兆を立てて1630年に挙兵(第二次両田の乱)を行うなど、中央部の混乱の中心となった 1633年、居城にて病死

2014-03-10 00:32:30
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@lion_jinro1206 理科音也 1488~1543 幕府管領。守護大名として全国88カ国の内14カ国の守護を兼ね、「6分の1殿」として幕政の中心人物となった

2014-03-10 00:39:50
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@lion_jinro1206 1520年に衛宮観方が挙兵すると、その討伐の主力となり、衛宮観方を敗死させる その後も政敵を打ち滅ぼし、管領として権力を独占。10代将軍により音也に対するクーデター(良平の乱)が起きると将軍をすげ替えるなど、実質上の天下人となった

2014-03-10 00:42:46
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@lion_jinro1206 その後も幕府内で権力を奮うが、強引な手腕に多くの守護大名の恐怖と反感を買う。11代将軍を1640年に討ち、薙川国高を守護から追う(文久の政変)が、それにより多くの守護大名を決定的に敵に回す

2014-03-10 00:45:50
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@lion_jinro1206 1542年には衛宮観方の子衛宮海斗が挙兵。更に一門衆であった二句優花もそれに同調して挙兵した。音也は3万の兵で播州吾妻野で二句、衛宮連合軍と戦うも敗北、京へと逃げ伸びるが捕縛され斬首された

2014-03-10 00:48:50
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@lion_jinro1206 この各種の乱の中で将軍権力は大きく衰退。音也の死後は二句、衛宮、薙川、悶々らの各有力大名達の合議制へと以降するものの、その体制も1551年の永明の乱で瓦解。戦国時代の始まりである

2014-03-10 00:51:12
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@kai774_hirumi 衛宮海斗 1516~1609 戦国時代初期の守護大名。戦国大名。幕府相判衆 衛宮観方の子。父が理科音也に討たれた後、一時衛宮家は没落したが次第に勢力を回復し、1539年にその領国であった露州、形州の守護の座を取り戻す

2014-03-12 01:58:38
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@kai774_hirumi 文久の政変により、理科音也が幕府権力を一手に握ると、次の粛清対象となる事を恐れた理科の一門衆であった二句と結び挙兵。吾妻野にて理科音也を破り、その首を取った。その後は二句、薙川、悶々らとともに幕政を握る(聖命体制)

2014-03-12 02:01:45
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@kai774_hirumi しかし、49年。所領問題で悶々一族の折楽高好と対立した事で聖命体制が揺らぎはじめる。この問題は薙川国高の裁定により海斗は譲るものの、その対立は尾を引く。 51年に能尾家の後継問題で再び悶々と対立、海斗は3万の兵で悶々の所領に攻め込む

2014-03-12 02:04:53
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@kai774_hirumi 悶々は将軍の裁定によって収めようとするも、海斗はそれを無視し、折楽高好を洛中にて殺害。幕府討伐軍に対しても抵抗し、12代将軍を敗死させる(永明の乱)

2014-03-12 02:06:29
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@kai774_hirumi  永明の乱以降は所領へと戻り、領内の国人領主及び、幕府の命を受けた周辺勢力の攻勢と戦いならが戦国大名化を果たし、更に諸多州にも勢力を広げ、1576年に中央部を収めた織田家に降伏。三カ国を安堵される

2014-03-12 02:08:30
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@kai774_hirumi  1590年に織田家の後継者争い(両田の乱)が起きると、織田家に見切りをつけ再び独立し、織田家に対し度々干渉を繰り返した。生涯55戦50勝1負け4分の戦上手とされ、ただ一度の負けは国津毬人(国津コルクマリー)に敗れたのみとされる

2014-03-12 02:11:55
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@lion_jinro1206 @kai774_hirumi シナリオ1「理科音也の管領独裁」シナリオ2「良平の乱起き、衛宮海斗立つ」シナリオ3「幕政倒れ、諸侯動乱す」 シナリオ4「関東崩落し、各諸侯東西に分かるる」シナリオ5「両田の乱起き、安土翡翠の炎に燃える」 でお送りします

2014-03-12 22:09:31
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@ukulele_nagi 薙川国高1519~1614? 幕府後期の管領。通称浮太郎。理科音也とともに幕府の政変で勢力を広げた薙川広高の子。父の後を1934年に継承し。音也とともに十代将軍の挿げ替え(良平の乱)を引き起こす

2014-03-13 20:13:25
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@ukulele_nagi その後も理科音也の盟友として上方を中心に勢力を拡大。1539年には上方13カ国の内7カ国の守護を兼ねる大大名へと薙川家を成長させる。しかし、幕府権力の独占を図る理科音也は、この国高の勢力拡大を脅威に感じ、11代将軍のクーデターに乗じて国高を追放する

2014-03-13 20:15:53
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@ukulele_nagi しかし、1541年に理科音也が衛宮海斗に打たれると幕政に返り咲き、聖命体制の中核として幕政に権力を奮う。45年には上方地方における最大の対抗勢力であった板越陽成を上方から追い、その勢力は絶頂を極める

2014-03-13 20:19:01
翡翠@リース @Clearsky_lordes

@ukulele_nagi 1551年。度々折楽高好と対立していた衛宮海斗がついに挙兵するとその討伐軍の主力となるが、正芽坂の戦いにて12代将軍が敗死するほどの大敗を喫し、11カ国を兼ねた領国も本領である3カ国を除いて全て没収され、幕政から失脚する事となる

2014-03-13 20:21:57
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