佐藤正美Tweet_20140501_15

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佐藤正美 @satou_masami

見る事のできぬ事業全体を、つまりSEが見る事も体験する事もできないくせにモデル制作などという事をどうして言い出すようになったのか。直接体験では事業構造を知る事はできない。私は事業について色々な記号(情報)を眺めている。実際に成された取引に関する色々な情報(証跡)を眺めている。

2014-05-01 16:12:43
佐藤正美 @satou_masami

「私は観たままの『事実』を述べている」って!? では、見る場所を変えて見給え。たとえば、(受注取引を見ているなら)出荷取引か受注取引を見給え。「受注」を今までとは違った視点で覧ざるを得ないだろう。

2014-05-01 16:13:22
佐藤正美 @satou_masami

一度 観察をしたくらいで事態の「構造」を知る事はできない事は、こども でも知っている。

2014-05-01 16:13:59
佐藤正美 @satou_masami

直接体験では、二人が同一の瞬間に決して同一の見かたをすることができない。この事は、モデルがSEの視点(「解釈」)に頼って書かれるべきでない事を意味している。

2014-05-01 16:14:29
佐藤正美 @satou_masami

モデル制作では色々な取引(出来事、行為)を事業に統一して、種々様々な役割を担う人々が一つの同じ事業を営んでいる事を知るところまでいかなければならない。めいめいのSEが自分で描いた事業構造をモデルだと思っている様々な視点からは一つの(共有できる)世界(モデル)は生まれない。

2014-05-01 16:15:05
佐藤正美 @satou_masami

論理規則によって制作(条件化)されていない図式というものは、ほとんど常にとりとめがないものである。

2014-05-01 16:15:36
佐藤正美 @satou_masami

モデルはその制作者の意見・批評の表現には適しないが、その代わり寧ろ記号から「事実」へ、また「事実」を条件化してその原因(理由)にまで遡るための表現である。

2014-05-01 16:17:28
佐藤正美 @satou_masami

酵素は自身を消化する事はできない。それが公理(仮説、前提)としての性質である。そして、理論として ひとたび目的化された規則は、たちまち自体の体系をもつようになる。それが公理系(理論)である。モデルは、いくつかの公理から出発して、純粋に論理的に組み立ててゆく構成物である。

2014-05-01 16:18:13
佐藤正美 @satou_masami

或る事態 x とその写像 y のあいだに y=f(x) の形の関数関係(ただし、全射)が成り立つ場合、その事態を支配する規則が知られていれば、関数 f(x) の形は理論的にもとめられる。関係式 y=f(x)を論理式という。それがモデルの基本形であり、実験式とは対照的である。

2014-05-01 16:19:25
佐藤正美 @satou_masami

モデル制作は技芸ではない。ロジシャンが観た「事実」の伝達なのである。モデルにおいては、「真」(導出的なL-真、事実的なF-真)ならざるものは、すべて偽りである。

2014-05-04 20:53:03
佐藤正美 @satou_masami

モデルは、条件と論理とに満たされた構成物でなければならない。私は次の説明よりも良いモデルの説明を知らない──「どんな形式的理論体系も可算モデルをもつ」(レーヴェンハイム・スコーレムの可算モデル)。それは自然・現実・事実に見出された無矛盾性である。

2014-05-04 20:53:42
佐藤正美 @satou_masami

モデルとは、我々のなかに再構成された「事実(現実的事態)」である。

2014-05-04 20:54:11
佐藤正美 @satou_masami

論理規則とは思考の一つの表現形式であり、あらゆる人間に通ずる言語を語る。寧ろ思考の一表徴である──すべての者が関わりあっていて、どこにも迷路のない道を、思考に正確に示してやるためである。

2014-05-04 20:54:46
佐藤正美 @satou_masami

事業モデルの特色は、経営過程のもとで考えるという事である。経営過程は管理によって認知される限り、一つの取引は他の取引へと導かれ、取引に関与する人々によって合意された手続きを最初にはっきり打ち立てておかねばならない。連続した取引は管理過程に従った展開の、つまり分析の対象なのである。

2014-05-04 20:55:26
佐藤正美 @satou_masami

経営過程に対する管理過程というこうしたはっきりした手続きがあるにもかかわらず、経営過程の観察がSEたちのあいだで なおあまりにも勢力を振るいすぎている。

2014-05-04 20:56:07
佐藤正美 @satou_masami

文字に書かれた証跡(「情報」)においてさえ、その構造を知る事よりも文字についてのSEの「解釈」が優先されている。真のモデルがパターン・先例などの予備的枠組み・要約などを拒むのは、まさにこの理由による。モデルでは、項と項との関係は論証された限り、構造はすでに証明されているのである。

2014-05-04 20:59:09
佐藤正美 @satou_masami

モデルの目的は事態の構造究明にあるのであり、「関係」と事物とのあいだには、推論(論証)と判断の間におけるのと同様の相違がある事がわかるのである。しかし、この相違は先入観をもつ多くのSEには目新しいかもしれない。この点をはっきりさせたいなら、数学基礎論を学習する事を私は勧める。

2014-05-04 21:00:31
佐藤正美 @satou_masami

「悪魔の辞典」(ビアース)に倣って云うなら、「モノ(entity)[ 名詞 ]──この語、定義なし」。

2014-05-04 21:01:04
佐藤正美 @satou_masami

事業に関するモデル制作の行為およびその目的とは、経営過程のなかの事物がその関係の中に置かれる位置の発見であり、関係の構造を明らめる事である。それに反して、モノの概念の究明はSEの経験に応じて、イーストの利いたパンみたいにいくらでも膨らまされ類推される──SEの陥りやすい罠である。

2014-05-04 21:01:44
佐藤正美 @satou_masami

数学では証明はほとんど不可欠だが、事業構造を明らかにするモデルには証明が欠けているのだから、その構造は証明を代用する確固な構造でなければならない。事業においては、時間の順序は出来事の順序なのである。そしてこれは帰納的に可算である。つまり、対象領域のメンバーを並べる計算手順がある。

2014-05-05 21:21:52
佐藤正美 @satou_masami

数学的には「帰納的に可算である」事を再帰(recursive)という。すなわち、自然数の集合Sが、原始帰納的関数gを使って S={g(0), g(1),・・・}と表現される事をいう。

2014-05-05 21:22:23
佐藤正美 @satou_masami

集合Nの部分集合Sが「帰納的に可算」であるとは、次の帰納的関数fが存在する時である──f(N)={f(0), f(1),・・・}=S。このとき、fはSを「列挙する」(enumerate)という。

2014-05-05 21:22:56
佐藤正美 @satou_masami

S⊆N が帰納的に可算であって、その補集合(N-S)も帰納的に可算であれば帰納的になる。しかし事業に関するモデルでは、出来事(event)は帰納的に可算であるが、それに関与するモノ(取引先、商品、従業員など)は帰納的に可算ではない。この補集合の扱いが事業をモデル化する工夫となる。

2014-05-05 21:23:41
佐藤正美 @satou_masami

モデルが対象、その諸部分、その関係を明らかにするのであれば、当然ながら、出来事(event、取引)がモデルの主たる座標となる。そして、出来事の形式、それは過去時である──完了した、もうどうにもならないものの観念である(事実的なF-真)。

2014-05-05 21:24:20
佐藤正美 @satou_masami

そして、出来事(event、取引)はSEの働きかけなしに、ただ出来事のみに属する継起の単純性そのものによって構成されているのである。

2014-05-05 21:24:52