佐藤正美Tweet_20140501_15

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佐藤正美 @satou_masami

論理的なものは常に抽象的(条件的)な厳しい無矛盾の形式と赴く。論理的なものは決して想像と入り混ざることはないが、体験が直接的に知られたものに打ち勝つや否や、論理的なものは想像的なものに混同される。そして、体験から得られた信念は、それが証明を求めず、また証明の外見すら軽視する様だ。

2014-05-05 21:25:22
佐藤正美 @satou_masami

体験から得た信念に起因する想像は、思考が眼前のモノにはかまわず、自分を相手に戯れる事だ。しかも、どんなに厳正な論証にも、当初、想像はいつも流れているもので、姿を現しては、「論理」の繰り返される検討によって、結局は、確固たる証明によって姿を消すのである。

2014-05-05 21:25:56
佐藤正美 @satou_masami

我々は、しばしば、我々の「信念」(あるいは、思い込み)で、色々な心像を作るというより寧ろでっち上げる。この時、眼は、てんで用をなさない。我々の鉛筆が描き出す事態・事物の印象をせいぜい追いかけるにすぎない。我々は出来事を体験するごとに色々な印象に酔いやすい。

2014-05-05 21:26:29
佐藤正美 @satou_masami

「論理」は、事業過程において記録伝達される「情報」のなかに確かにある。それを引き出す事のできるシステム・エンジニアがモデルを制作できる。事業過程の「情報」は事業営為に従事する人々にとっては「意味」の使用であり、モデル制作に就くシステム・エンジニアにとっては「意味」の対応になる。

2014-05-05 21:27:07
佐藤正美 @satou_masami

その名に恥じぬ(ちゃんとした)システム・エンジニアなら、「論理」を当然ながら尊重する。その眼は外面の事実を受け入れて、書物を開いて読む様に、そこに「形式」の真実を読み取る。いつもそうである様に、「形式」が内容を示すのである。

2014-05-05 21:27:47
佐藤正美 @satou_masami

経営過程中の取引を為す当事者の心理状態を知っている事が「制度(システム)」に何の役にも立たないと同様に、モデルは取引や組織を観察しそれを体験して身につけようとする新人社員のために制作されるものではない。モデルは事業を支えている諸条件を列挙する事ができれば上々である。

2014-05-09 00:59:39
佐藤正美 @satou_masami

事業が再生されるのは、それを成り立たせている条件によってであり、条件の列挙は「論理」による。「論理」による的確な諸条件の記述は、SEが拾い集める(事業に関与する当事者たちの)証言よりも、事業の形 [ 構造 ] をよく描き出す。

2014-05-09 01:00:41
佐藤正美 @satou_masami

叙事的なものは、現存する対象を表す具体的な記号をもつから、堅牢で現実的なのである。モデルは、常にそれらの記号列から出発するものであり、構造(関係)または条件に遡るにすぎない。モデルは、記号列(すなわち「事態」)を支配している規則を公理系にしている。

2014-05-09 01:01:19
佐藤正美 @satou_masami

モデルにおいて使用される公理(仮定)がいつも事態そのものの形式とそれらのあいだの関係のために、暫(しば)しの命脈を示すにすぎない現実的事態に対して普遍的な法則に類するものとなる。この種の法則は、事実に何ひとつとして付加する事はない(付加する事はできない)。

2014-05-09 01:02:00
佐藤正美 @satou_masami

モデルが現実的事態と異なるのは、決して(その取り扱うところの)事態の「性質」の分析によってではなく、まさに(モデルのもつ)真実性 [ 無矛盾性 ] なるものが本来「論理」にもとづき、またいつまでも「論理」の形式をとどめるためだという事である。

2014-05-09 01:02:37
佐藤正美 @satou_masami

事業過程におけるすべての取引(出来事)は社会的である。そして、取引は、事業環境によって限定されない際にも、その過程にもとづいた制度的判断に依存する。これらの取引は決して何ひとつ個人的なものをもたない。そういう構造をSE個人の「解釈」に頼って分析する事がそもそも無茶である。

2014-05-09 01:03:15
佐藤正美 @satou_masami

システム・エンジニア本来の務めは、現実的事態を「論理」にもとづいたシステムとして翻訳する事にある──「論理」が事態を離れずに、かえって事態を固めるのであるから、モデルを定義するのは、寧ろ事態から論理的構造への関係なのである。現実的事態のすべてがモデルの中へ入ってくるとは限らない。

2014-05-09 01:04:01
佐藤正美 @satou_masami

「現実」から論理的構造への関係、ただそれだけで、いかに真実のままの「現実」も形を全然変えてしまうのだ。だから、モデルにおいて「真」と呼ぶべきものは、主として事物・事態の性質記述を指すのではなく、寧ろ「真」は形式のあいだの無矛盾性であるとする「関係」の分析である。

2014-05-09 01:04:47
佐藤正美 @satou_masami

事業に関する情報システムの最初の素材は、決して事業過程ではなくて、つねに事業過程に対する管理過程である。情報システムは、管理の対象とならない事態を素材とする事は毛頭ない。モデルは、管理的条件の中で営まれている取引群のおのおのの関係を「論理」の流儀で再建するのである。

2014-05-09 01:06:21
佐藤正美 @satou_masami

事業過程(購買過程、生産過程、販売過程の正常事業循環および労務過程、財務過程)において、取引のない管理、管理にならない取引がどこにあるか?

2014-05-09 01:07:01
佐藤正美 @satou_masami

我々は言葉を知覚する。そうして表現しようと意図している言葉に似た言葉をつい使ってしまうが、これも一種の「類似による連想」なのである。文脈を離れた「概念」そのものの追究には、我々が考える以上の憶測(想像)がふくまれているもので、本来「意味」を定立する「関係」が軽視されている。

2014-05-12 16:18:28
佐藤正美 @satou_masami

モノは色々推量してみたり粗描したりしてみて初めて知覚される。我々の知覚は一瞥して素速い調査をおこない、先ず不安定な足場を作る。そして我々はいくつもの類似物を思い起こして、そういう似たモノが我々の印象を説明してくれるので、パターンによる連想が重宝されるのかもしれない。

2014-05-12 16:19:10
佐藤正美 @satou_masami

システム・エンジニアという名称は、システムを造る技術をもっている人、実際にシステムを造り得る人のために用いられるべきである。システム・エンジニア擬(もど)きという種族は、「概念」(経験、パターン)をいくつも必死に抱えて、うろうろしている。

2014-05-12 16:19:48
佐藤正美 @satou_masami

ロジシャンの幸福は、現実的事態になり切り得るアルゴリズムを構成する事であり、アルゴリズムになり切り得る現実的事態を発見する事かもしれない。

2014-05-12 16:20:28
佐藤正美 @satou_masami

諸々の取引(行為、出来事)は、それについて記録(管理)されている事と、それについて伝達されている事 以外の事は何ひとつとして知られない。或る取引が知られるのは、ただその取引の管理においてのみだ。すべてこの記録の仕方が充実した世界を造り出し、出来事を照らし描き出すのである。

2014-05-12 16:21:18
佐藤正美 @satou_masami

ひとつの事態(物)は他の事態のただ中で考えられた出来事だ。そして、時間・運動・位置というものは、実際に切り離す事ができない。どこにあるか知る事は、どこから生じたか知る事だ(先行・後続、原因・結果の関係)。時間の可能性は、位置の形で考えられる──「関係」を並びで表現すること。

2014-05-12 16:21:51
佐藤正美 @satou_masami

システム・エンジニアは、事業に敬意を払い、その構造を明らかにせねばならない。システム・エンジニアという職がなかったら、我々は事業構造をとうてい本当には知らないであろう。ただし、システム・エンジニアが対象とするのは現実的事態のうちの、管理(「論理」)が介入する部分に対してである。

2014-05-12 16:22:28
佐藤正美 @satou_masami

モデルは、導出的L-真と事実的F-真を実現した精緻な論理的構成物になると、なにか「足りない」様な気を起こさせる。外気を吸いたくなり、外(そと)を歩いてみたくなる。欠点がないのが欠点だ、と下らない洒落も言いたくなる。しかし、まだ飽きてもしない御馳走を飽きたふりする必要はないのだ。

2014-05-12 16:23:04
佐藤正美 @satou_masami

私は、この頃では、他人の理論を学習する意欲が喪失した代わりに、不可能な事ばかり考えている。たとえば、今、30才になって、数学を修めていて(私は数学を学習しなかった文学青年だった)モデル論を考えていたら、どんな事になっていたろう、という事など。希望は過去にしかないのかもしれない。

2014-05-12 16:23:40
佐藤正美 @satou_masami

出来事Aが起こった、それをaという人が証言した(その出来事をありのままに述べた)。その際、aの証言を論理でもって調べるのは、aの証言が妥当かどうかを調べる事であって、出来事を調べる事ではない。出来事の「証跡」として正式に監査された管理記録でなければ、信頼できる資料とはならない。

2014-05-12 16:46:32