修復的正義について(by @watarloo )
- when_we_cry
- 2038
- 0
- 1
- 0
人をぶん殴りながら、「暴力はやめて」と抗議する相手に向かって「被害者面するな」「おまえらは本当の被害というものを知らない」と言う加害者というのは珍しい光景ではない。おそろしいことに。
2010-11-11 09:39:05別バージョン>人をぶん殴りながら、「暴力はやめて」と抗議する相手に向かって「殴ってない」「おまえらは甘えてるだけだ」と言う加害者というのは珍しい光景ではない。困ったことに。
2010-11-11 09:55:26「私が痛いと感じたら暴力だ」とは、「相対化できない個々人の痛みがたしかにある」ということだ。「誰が被害者で、誰が加害者として罰せられねばならないか?」ということではない。いわば修復的正義への契機と言える。そこを勘違いした者が「オマエが殴った」「オレは殴ってない」と泥仕合を始める。
2010-11-11 22:08:33承前)修復的正義という概念はまだ洗練されているとは思えないが、「誰が加害者で誰が被害者か」の判定とは別に、「そこに生じている痛みは取り除かれるべきだ」という訴えは傾聴されてしかるべきだろう。「本当の被害者は誰か?」の判定は修復を損なう暴力なき場で解決されなければ。
2010-11-11 22:15:42二つ前の続き)ゆえに「私は傷付いた」を「被害者を名乗ることによって正義を僭称する」行為(=悪しき相対主義に基づく自己絶対化)という文脈に落とし込もうとする誤謬はよくみられるが、修復的正義(あるいは修復的司法)という視点はそこを抜け出すヒントになる。
2010-11-11 22:21:17修復的正義にちょっと似ている気もするのが、C・ギリガンの「善悪を決する”正義”」に対して「回復、癒しを目指す”ケア”の倫理」を対置するやり方なのだけれど、こっちはちょっと賛成しかねる。
2010-11-11 22:25:57ギリガンの問題提起は有用な面があると思うのだけれど、往々にして「正義=男/ケア=女」というジェンダー化に絡めとられることに警戒しすぎることは無いと思う。
2010-11-11 22:49:33.@qianbianwanhua 「修復的正義(修復的司法)」、一言では難しいですが、「誰が犯人か、量刑は何かを定める(刑事的)」ではなく「当事者の被害からの回復への実践」と言えるかと。ハワード・ゼア『責任と癒し 修復的正義の実践ガイド』が入門書としてありますね。ただし(続く)
2010-11-12 12:04:21.@qianbianwanhua 続き)修復的正義は加害者へのケアという面もあるので、ともすれば加害への免責という文脈にも陥りかねない。その点への注意は必要で、まだまだ洗練される必要あると思います。とはいえ「痛みを受けた者が声を上げることの正当性」を裏付ける概念ではあるでしょうね
2010-11-12 12:08:33加害者に対して適切なケアを行わなければ新たな被害者がまた生まれてしまう。それゆえに加害者ケアは重要なのだけれど、ともすれば加害を免責するための方便にされかねないのが悩ましいところ。
2010-11-12 12:11:41「修復的正義」についてぐぐると、「スピリチャル的な解説ページ」がヒットしてきた。入門書の日本語タイトルに「癒し」が用いられてしまっているなど、使用上の注意はよく読まないとまずい概念ではあると思う。
2010-11-12 12:17:13"「私は傷付いた」を「被害者を名乗ることによって正義を僭称する」行為(=悪しき相対主義に基づく自己絶対化)という文脈に落とし込もうとする誤謬"はなかなか止まないようだ。 http://twitter.com/#!/watarloo/status/2712470363832320
2010-11-12 17:00:21「私こそが被害者(実際に以前に過酷な暴力の被害に遭っていた)、私こそ正義」と称する人から破壊的暴力を継続的に受けたことがある。「被害者=正義を僭称する」例はあるのは事実。しかし、痛みを訴える人をやたら取っ捕まえて「オマエは被害者面した正しさに甘えてる」と言えるわけがない。
2010-11-12 17:08:10続き)被害者/加害者を名指す権力行使をいったん括弧に入れることと、差別や暴力を相対化させることとは別問題。「それは暴力なのか?」「差別なのか?」という問いと断罪を捨ててはならない。むしろ、捨てないからこそ、目の前で痛みを訴える存在を無視してはならないはずだろう。
2010-11-12 17:24:47