同日同刻ー終戦の15日

山田風太郎の「同日同刻―太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日」の8月1日から15日分を2013年(平成25年)の8月1日から15日まで、可能な限り日時を合わせてつぶやいたものです。
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戸村裕司 @tomurayuji

"夜の白みかけるころ、大城戸憲兵司令官が、近衛師団の件を報告のために来た。阿南は「そろそろ夜が明けるから、始める。憲兵司令官には君が会ってくれ」といって、竹下中佐を応接室に去らしめた" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 03:45:39
戸村裕司 @tomurayuji

"4時半ごろ…横浜高工の学生たち自称「国民神風隊」40人は…首相官邸を襲ったが、首相は私邸にいることを知って…そのことを急報された首相夫妻は…実妹の家へ…そこから私邸に電話すると、電話には襲撃隊が出た。首相夫妻はまた…飛び出した" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 04:32:28
戸村裕司 @tomurayuji

"夜明けとともに、東部軍司令官田中大将は出勤して、宮中の反乱兵を鎮圧解散させた。" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 07:02:30
戸村裕司 @tomurayuji

"7時21分、舘野守男アナウンサーは放送をはじめた。「謹んでお伝えいたします。かしこきあたりにおかせられましては、このたび、詔勅を煥発あらせられます。かしこくも天皇陛下におかれましては、本日正午…」" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 07:20:41
戸村裕司 @tomurayuji

"米機動部隊旗艦ミズーリ艦上のハルゼー提督が、トルーマン大統領からの飛伝を受け取った…「10時20分、全空襲部隊が帰還したが…上空哨戒の戦闘機隊はそのままに…命令した。カミカゼが…最後の攻撃をかけて来るかもしれないと思ったからである" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 10:20:46
戸村裕司 @tomurayuji

"「これより、畏くも天皇陛下の御放送であります。謹んで拝しまするよう」夢声は、妻と娘と畳の上に直立不動の姿勢をとった" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 12:02:01
戸村裕司 @tomurayuji

谷崎潤一郎の日記"(永井)荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る…時報の後に陛下の玉音をきき奉る。しかしラジオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず…無条件降伏の…ことのみはほぼ聞き取り得…皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 12:05:36
戸村裕司 @tomurayuji

"信州飯田に疎開していた医学生山田風太郎は、町の大衆食堂でこの放送を聞いた…『どうなの?宣戦布告でしょう?どうなの』とおばさんがかすれた声で言った…『済んだ』と、僕はいった。『おばさん、日本は負けたんだ』『く、口惜しい!』" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 12:10:26
戸村裕司 @tomurayuji

"日本に空白の午後が来た" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 12:31:36
戸村裕司 @tomurayuji

"中国にはその瞬間には歓喜だけがあった…飛行機の編隊が上空に至り、空から無数の伝単が雪のように降ってきた…伝単は蒋介石の布告であった" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 14:01:48
戸村裕司 @tomurayuji

"クリスチャンで、日本の神社に参拝することを拒否したため昭和14年以来平壌刑務所に収監されていた安利淑は、この日日本が敗北し、刑務所から日本人職員が消えていることを知った。彼女は朝鮮人看守に命じて各房の扉をあけさせた" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 14:31:07
戸村裕司 @tomurayuji

"誠文堂新光社の社長の小川菊松は、いもの買い出しに来ていた房総西線岩井駅で…突然眼を光らせた。「英語が要る。ようし!」彼は東京に飛んで帰って、一晩でB7判「日米会話手帖」32ページの原稿を描き上げた" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 15:01:57
戸村裕司 @tomurayuji

新京放送局の森繁久弥の手記"あの長い社宅街が、落花狼藉、どこの家も空っぽでひっそりかんとし…地球の最後のように思えてならなかった" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 15:31:12
戸村裕司 @tomurayuji

"(第5航空艦隊司令長官)宇垣中将は…大分飛行場に向かった。爆撃機が9機…日の丸の鉢巻をした18人の搭乗兵が整列していた…「皆、私といってくれるのか?」…7時30分「敵空母見ゆ。われ必中突入す」。そして電波は絶えた" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 19:31:30
戸村裕司 @tomurayuji

"福岡になる陸軍第6高空軍司令部にも、第101特攻隊員がおしかけた…午後8時…菅原道大中将は当惑した表情になり…いった。「死ぬばかりが、責任を果たすことではない。また玉音を拝聴した上は、余はもう一人の兵も殺すわけにはゆかない」" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 20:02:00
戸村裕司 @tomurayuji

"関東軍の救援を熱望しつつ、開拓民たちは惨劇に投げ込まれていた。吉林省扶余県にある来民村は…夜に入り…暴徒が来襲し、村民との間に死闘がはじまった…まだ日本の降伏を知らなかった…老人、子供、女たちは自決をはじめ…豊田団長は…火を放った" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」

2013-08-15 21:03:24
戸村裕司 @tomurayuji

大佛次郎の手記 "切ない日が来た。生き残った私どもの胸をつらいている苦悩は、君たちを無駄に死なせたかという一事に尽きる。繕いようもなく傷をひらいたまま、私どもは昨日の敵の上陸を待っている。" 昭和20年8月15日 山田風太郎「同日同刻」twitlonger.com/show/n_1rlti8c

2013-08-15 22:02:51
戸村裕司 @tomurayuji

(余録)昭和25年(1950年)の引揚援護庁の「引揚援護の記録」によると、終戦時の在外邦人数は660万人以上であった。祖父はその中の一人で、シベリアに5年間抑留された。ロシア語が出来るなどで重宝がられ、帰国する隊列に並んでいたとき連れ戻された、と笑いながら悔しそうに語った。

2013-08-15 22:21:02
戸村裕司 @tomurayuji

(承前)「わーでっかいジャガイモ畑だ」祖父の手記の草稿は、この一文のみだった。しかし持ち帰ってきた大きなスプーンは今も語り続ける… お陰様で15日間、「同日同刻」を続けられ、心から感謝します。依然、「同日同刻」は終わっていないという緊張感と、平和への願いの中、一区切りとします。

2013-08-15 22:25:52
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