こがばあ様83歳ツイート「戦争体験part5【サイレン】~「ラ音」の記憶。この人たちと幾らも年の違わぬ人たちが70年前・・・

高校野球、試合終了のサイレンに指先が痺れる…空襲のトラウマなのだ
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こがばあ @kosato80

《サイレン》①高校野球開幕。両チームの健闘を頼もしく見ていたのだが試合終了のサイレンに指先が痺れる。これは緊張や恐怖で心臓が一瞬動きを止めたから?私には空襲のトラウマなのだ。「ラ音」を基調にしていると言われるサイレン。ラ音は人の耳で捉えやすい音と聞いたことがある。産声もラ音と。→

2014-08-11 14:30:15
こがばあ @kosato80

《サイレン》②小さい頃、正午を知らせるサイレンが鳴っていた時期があった。警戒警報や空襲警報のサイレンが頻繁に鳴り響くようになってからは多分止めたのではと思うがそれは記憶に無い。空襲警報の最初の記憶は多分1942年春、私が小学6年の時。私がいた小学校は当時珍しく給食があった。→

2014-08-11 14:39:53
こがばあ @kosato80

《サイレン》③私は好き嫌いが多く低学年の頃は給食が苦痛だったが、次第に食糧も配給制になり、いつも空腹感で辛い時代。給食が楽しみだった。その日給食が始まったときにサイレン!即食事は中止で机の下に避難。当時はまだ防空壕は無かった。幸い空襲はなくそのまま下校。食べ残したウインナーw→

2014-08-11 14:51:55
こがばあ @kosato80

《サイレン》④そんなのは序の口だった。翌1943年女学校入学後は、それまでたまに鳴っていた警戒警報のサイレンが夜昼問わず鳴り響く。そのあとに空襲警報も。庭に父が防空壕の大きい穴を掘った。1944年には級友達が疎開でいなくなる。幼馴染の近所のおにいさんが陸軍幼年学校入学。→

2014-08-11 15:09:00
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑤そのおにいさんの家族は遠い将来私と結婚させたかったようだ。その家族が疎開する時、お別れにメオトの市松人形をあげたかったけれどこのご時世だからまたいずれと言われたがそれ以来消息不明。1944年夏休みに熊本に疎開。転校した女学校では警戒警報発令で登校と言われた。→

2014-08-11 15:21:32
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑥枕元に下駄(通学は下駄)と救急袋を置き夜中にサイレンが鳴ると同時に登校。灯火管制でどの家も灯りが外に洩れないようにしているから暗い。真冬で寒かったが学校を守るためそんなことは言っていられない。でもこの登校は空襲が頻繁になるにつれ中止に。女学生も家族を守る役目がある→

2014-08-11 15:33:35
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑦男性は戦地に行っていて多くの家が母子家庭だったのだ。私が疎開していた祖母の家も目の不自由な祖母と叔母二人、そして母と、私を頭に3人の妹達。8人全員女性。正月過ぎて1945年になってから私たち疎開組は別の家に越し、東京から新たに疎開してきた別の叔母たち家族と同居。→

2014-08-11 15:45:08
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑧そこは幼い男の子もいたが。食糧難が厳しくなる中、二家族の同居が平和に行くはずもなく、その上そこは上熊本の駅の近く。いつ焼夷弾の標的になるか。で私たちは再び更に郊外に引っ越した。郊外と思ったが実は兵器庫の傍。連日連夜の空襲に庭の防空壕では恐ろしく近くの横穴に走った。→

2014-08-11 15:55:06
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑨7月初めのその夜は特に激しい空襲で、家の防空壕から近所の濟々黌の窓から炎が噴き出しているのが見えた。母が2歳の妹をおんぶして5歳の妹の手を引き、私は8歳の妹と手を繋いで走った。道に垂れ下っている電線をまたぎながらだった。町はずれの横穴は少し余裕があり入れて貰えた。→

2014-08-11 16:09:30
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑩誰かが大きい声で喋ると、敵に聞こえる!と制する声がした。朝になり見ず知らずの者同士、無事を確かめて帰宅。途中の家の多くが焼けていて道ばたにあちこちムシロを掛けたものがあった。焼死体だった。数日後どうにか東京行きの汽車の切符を手に入れて高崎の在にある母方の親戚宅へ。→

2014-08-11 16:21:25
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑪再疎開。荷物はお櫃と一升瓶。お櫃には小麦粉に塩を混ぜて焼いたものを詰め唐草模様の大風呂敷に包んだ。一升瓶には水。持つのは私。母は妹をおんぶして手を引く。汽車は少し行っては止まる。空爆を避けるため。大阪駅の近くでは一晩止まったままだった。翌朝見た大阪駅周辺は焼野原。→

2014-08-11 16:48:08
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑫まだ煙がくすぶり水道の蛇口が壊れて水がこぼれていた。一升瓶に補充。三日三晩かかって東京駅に着き、幾つか乗り換えて群馬県の親戚宅へ。養蚕農家なので蚕部屋—蚕室(サンシツ)に間借り。ここではたまにサイレンが鳴るが空襲は無かった。代わって飢えが始まるがそれはまた別の時に→

2014-08-11 17:03:07
こがばあ @kosato80

《サイレン》⑬再び球児の姿に思う。この人たちと幾らも年の違わぬ人たちが70年前、少しゆるい軍服を着て足にはゲートルを巻き、次々に消えていった。国の御楯という美名のもとに。想像してほしい、万一のことを。70年経ってもサイレンの音に反応してしまうトラウマを持たせてはいけない。終。感謝

2014-08-11 17:23:22