#kodomomitai(0.1)
ターム的には若干の疑問を感じながら「コドモ身体」=アンコントロール(制御不能)な身体の意味と理解していたのだが、そういう共通理解はない? #kodomomitai
2010-02-23 04:30:44「コドモ身体」を巡る言説の混乱には「コドモ身体」=アンコントロール(制御不能)と「コドモ性」との混同があるのではないか。 #kodomomitai
2010-02-23 04:35:26ダンスの場合で言えばそれゆえ例えば珍しいキノコ舞踊団は村上隆、奈良美智に通底する「コドモ性」はあってもそれは本来「コドモ身体」とは関係ないはず。#kodomomitai
2010-02-23 04:40:33「コドモ身体」を「こどもしんたい」でなく、「こどもみたい」と呼ぶ呼び方は一般的なもの?寡聞にして聞いたことがないのだが。 #kodomomitai
2010-02-23 04:42:47私自身ではこうした混乱が嫌なので最近はできるだけ「コドモ身体」を批評言語としては使わず「アンコントロール(制御不能)な身体」とすることにしている。 #kodomomitai
2010-02-23 04:46:26RT @yanoz:「「コドモ身体」ということ コンテンポラリー・ダンスにみる「歴史と記憶」(?)」 http://is.gd/8ZDkm (『舞台芸術』誌第5号)で桜井圭介が参照したダンス時評。 http://is.gd/8ZDAn #kodomomitai
2010-02-24 10:47:24まず、細かいけれども「審査員しか賞の価値を決められない」という表現はちょっとおかしいのでは? 審査員のみが決めうるのは、「賞の価値」ではなく「賞における価値」ではないかと思うんですが。で、「賞の価値」を決めるのが権威かと。 #kodomomitai
2010-02-25 06:56:56で、だからそこで権威の妥当性が担保されてるかっていうのが問題なのであって。「賞における価値基準」は審査員が占有しうるけれども、「賞の価値」を占有的に敷衍することは権威なしにはできないですよね。 #kodomomitai
2010-02-25 06:57:32で、あとは自分の意見としてはもう繰り返しになるけれど。価値基準の占有を狙うことは批評の戦いとして何ら責められるべきことではない。もちろんこれは原則論で、「諸々の「価値観」それぞれの間に微細に張り巡らされている利害や文脈の相関」を考えたときには、 #kodomomitai
2010-02-25 07:05:17功罪の罪の部分の方が大きくなる、という場合もあるでしょう。それに対する批判ももちろんあってしかるべきだろうけれど、しかしそれを過度に不当なイデオロギー操作であるかのように言い立てるのは、それこそがイデオロギー操作に見える、という意見です。 #kodomomitai
2010-02-25 07:08:43例えばですが、(A)マルクスは「私は(A')マルクス主義者ではない」と言った(A≠A')。で、http://bit.ly/cX0X7Vの2とA'が合わさった状態「2A'」に批評は危機感を持ったほうがいいということでしょうか。 #kodomomitai
2010-02-25 11:33:21#kodomomitai RT @yanoz 「価値観の相対化」とか気軽に言えちゃう人は、ちょっとした好き嫌いの相違というものが、どれだけ深くに根を張っているものかをまじめに考えたことがないのではないか?ちょっとした好みの違いの、巨大な動かし難さ。
2010-02-26 14:24:13#kodomomitai @yanoz 桜井圭介さんと渡辺保さんがスパイラルで対談したとき「大野一雄はすばらしい。そう言うだけでいいですね」「何も言うことないですね」と肯きあっていたのは、とても良い場面だった。見巧者としての桜井圭介は尊敬せざるをえない。それはまあ、当然のことです
2010-02-26 14:27:31私はコドモ身体をコドモミタイって読んでいるわけではないけど、そう読みたい人は、そう読んでいいんじゃないでしょうか。それを妨げる理由は別に無いだろうし。もちろん、そうも読める可能性があることを前提にしてつけたハッシュタグだけど、他にも多義性あるよね。 #kodomomitai
2010-02-28 17:35:07