麻生三郎展関連・酒井忠康氏講演
#asosaburo 酒井氏の神奈川県立近代美術館時代に、森芳雄・麻生三郎展(1962年)を開催したのが出会い。「鎌倉の人」と認識されていたとか。
2010-12-05 01:27:40#asosaburo 学芸員は、一回ぽっきりの展覧会ではなかなか終わらないもの。なんとなく不足なものを感じて、研究ナリ次の展覧会へ続く、そんな気持ちで作家とのつきあいが続いていった。
2010-12-05 01:29:14#asosaburo 麻生がともに新人画会を結成した靉光(あいみつ)に言及。《魚(ひもの)》という作品で、机(台?)の線がまっすぐになっていない。ある時麻生が作品を目の前に語る。「酒井君、この絵の秘密はここにあるんだよ」
2010-12-05 01:35:25#asosaburo 「麻生三郎スケッチノート」の存在。ご遺族が、カタログレゾネを作るなら目録になるとおっしゃる遺品。1965から記録。拝見してえらく感動した。
2010-12-05 01:37:53#asosaburo 「麻生三郎スケッチノート」。いわゆる手控え帳であるが、普通の大学ノートに、しかも写真ではなく手書きでちょこちょこと描いていて、作家その人の気風が漂うようだ。
2010-12-05 01:39:46#asosaburo 麻生にとって、東京大空襲の経験は大きい。経験を通した、表現意欲に対する問題意識を感じる。自分を振り返られないと語った作家。
2010-12-05 01:44:09#asosaburo 麻生作品を見て総じて感じるのは、眼差しが優しいということ。モノを理解する認識者として感情を破裂させる熱を持つが、それを内省的に冷却する装置を併せ持っていた。
2010-12-05 01:46:52#asosaburo 麻生作品に感じるのは、失われたことによる生の回復。喪失から否定的な方向に向かわなかったところに「実存」の根っこを見る。
2010-12-05 01:56:27#asosaburo 《自画像》(1963・神奈川県立近代美術館) 自分から世界がさらに広がっていく転換期の作品。ニーチェの『この人を見よ』を思い出す。
2010-12-05 02:01:45#asosaburo 麻生がニーチェに影響されたというわけではないと思うが、「運命愛」に通じるものがある。作品が一度個に収斂され、それを再び壊す思索活動を行っている。
2010-12-05 02:07:13#asosaburo 麻生は詩も書いていた。自己確認のもうひとつの方法。個人的には大手拓次と作風が似ているのではないかと思う。言葉の感覚がゴツゴツしているが、文体は軽妙で都会的。詩を読んで作品を見るとそう感じる。
2010-12-05 02:12:57#asosaburo 現在、常設展で長谷川利行を特集している。修復が終わった《カフェ・バウリスタ》を展示。10代の麻生は40代の長谷川と出会い交流がある。ほか多くの文化人との交流があり、麻生の人間性がわかるエピソードである。
2010-12-05 02:16:15#asosaburo 麻生が川崎に転居した際、アトリエの白く綺麗な壁のせいで絵を描けなくなってしまった。どうしたかというと、わざと壁を汚した。フランシス・ベーコンの散らかったアトリエにちかいのではないか。芸術家の行動とはわからない。(笑)
2010-12-05 02:19:16#asosaburo 鎌倉時代のエピソード。「酒井君、僕はまもなく死ぬから早く展覧会をしないと間に合わないぞ」と脅されて準備を始めたといういきさつがある(※注・1994年の二度目のことか?)。絵を描いていらっしゃる方は、そうしたことを言うのも手かもしれない。
2010-12-05 02:27:04#asosaburo 参考:麻生三郎の詩集 『絵そして人、時』 http://www.amazon.co.jp/dp/4805502924 『いまのいま』 http://www.amazon.co.jp/dp/4805504692
2010-12-05 02:33:49#asosaburo 講演では「池袋モンパルナス」にも言及。豊島区長崎にアトリエを構えたが、空襲によりアトリエを焼失し、多くの作品が失われた。以後、三軒茶屋、川崎と移り住む。
2010-12-05 02:40:54