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富山で「公害資料館連携フォーラム」でした! blog.canpan.info/dede/archive/9… →公害資料館の連携も、次の協働のステージに!
2014-12-08 10:45:54公害資料館連携フォーラムで企業との関わり方についての分科会を仕切ったくださった五十嵐実先生から。 fb.me/2v4Fjlmuv
2014-12-08 11:37:15四日市公害と環境未来館 開館
東京新聞【社説】公害資料館 振り向いて未来を探す
2015年4月3日
「四日市公害と環境未来館」が開館した。一九六〇~七〇年代の、高度経済成長の陰に苦しむ人が、今もいる。公害を認め、直視し、克服しようとしてきた街の歴史から、持続可能な未来が見える。
「忘れないでください。忘れることで人は過ちを繰り返す」
六歳の時、チェルノブイリ原発事故で被災したウクライナの歌姫、ナターシャ・グジーさんは、ステージでいつも、そう語る。
一九九三年熊本・水俣病資料館、二〇〇一年新潟・環境と人間のふれあい館(新潟水俣病資料館)、一二年富山・イタイイタイ病資料館、そして四日市。これで四大公害の記憶を記録にとどめ、未来につなぐ施設が整った。
四日市は石油の街だった。コンビナートが繁栄の光をもたらした。だがその陰に、深刻な空気の汚れがあった。
九人のぜんそく患者が起こした国内初の大気汚染公害訴訟で、原告側が全面勝訴した。
亜硫酸ガスの濃度は、基準値以下に改善できた。街は今もコンビナートと共存を続けている。
市はかつて、資料館建設をためらった。公害の街のイメージをぬぐいたい、忘れたい。建設を拒みたい市民の気持ちもよく分かる。
しかし、裁判に勝っても、公害が終わったわけではない。
それは、過去にとらわれるばかりの場所ではない。その名の通り、ふるさとの未来を考える場所なのだ。
四大公害のどの資料館も同じ思いで造られたはずである。
館内には、コンビナートに隣接する小学校の教室が、当時のままに再現された。児童が一日六回日課にしていたうがい場も一部復元した。多くの関係者による映像証言や裁判資料、活性炭入りのマスクや吸入器などの現物も、すべてが未来のための証言者、過去とはよりよい未来を築くのに、最良の教材なのである。
省エネや脱温暖化など、一歩進んだ街の未来が示せるよう、見て考える場を提供できるよう、進化を続けてもらいたい。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015040302000173.html