- JunNakagawaWork
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実存と記号との関係は相対的であり、論理が対象を持たなければ理論になりえない様なありかたが実存と記号との基本関係であり、その限りにおいて、我々は記号に依存し実存を認知しているのである。
2015-02-19 00:56:38良いモデルの特長が現実(事実)を諸条件に翻訳してそれらを列挙しながら事態の形相を簡易にしているが、悪いモデルの欠点は現実(事実)をかいつまんで要約している。
2015-02-19 01:15:11モデルの構造が「論理」に合わないという事は、論理規則を無視する事ではなく、頭脳の働き( mechanism )を無視する事ではないか。
2015-02-19 01:20:12表現の明晰は、深遠な思想を簡易に見せる。正しく思考されたものである限り、それは必ず明晰な表現となる。すぐれた思想というのは、表現が明晰であるが故に簡易に見えるが、その意味を辿る事は恐ろしく難しい。
2015-02-19 01:23:47文学における文体とは、もしそれがうまくいった時には、私は皆とは違うという個性の表明であり、流通手段として共有物の言語が共通の感情を表現するいっぽうで、個別の思想と芸術がはじまる。しかし、論理規則を介して私が「論理」の上に見出だしたものは、私は皆と同じだという一般性・普遍性である。
2015-02-19 01:28:22モデルは、我々が通常好い加減に認識している実存の感覚を濾(こ)して、それを条件の系に変える。この翻訳こそ我々が一般化と呼びところのものではないか。
2015-02-19 02:05:19私はユーモア集を読むのが好きだ。悩みや心配や怒りは、たいがい笑いで治るものだ。それでもだめなら、悩み事を徹底的に見据える――数日間も そうやっていれば次第に気持ちが軽やかになる。悩んでいる自分を笑い飛ばしたくなる。それでもだめなら、自分の葬式を想像してみる――妙に落ち着く。
2015-02-22 23:28:57モデルは「構造(関係)」の概念を与える。すべてのモデルは、そうであろう。モデルは構成物であり、その構成物とはコンピュータの入力用として「論理(無矛盾)」の翻訳なのだから。
2015-02-22 23:33:02事業分析のモデルがわかる(モデルを読む)という事は、モデルの専門技術に関する知識如何に依るものではない。なぜなら、モデルが我々に語るものは、物事の条件と構成だからである。そこでは、「事実」が話しかける。
2015-02-22 23:35:30事業分析のモデルには、つねに一つの遠近法がある――つまり、出来事(「生起する現実的な事物」)が軸としてあり、それに対して「持続する現実的な事物」(取引先、商品など)は外的事物の役割(出来事に関与する事物としての役割)を演ずるのである。それによって事業の正常循環が把握できる。
2015-02-22 23:40:11一つのモデルは、そこでは事業の中で起こっているすべてが記述された見世物(スペクタクル)の様なものではない。それはつねに管理できる対象しか扱わない。そういう管理の構成的資料なのである。この点にこそモデルの統一が存するのであって、モデルがこの法則から離れる事は殆ど有り得ない。
2015-02-22 23:43:54論説・技術を創ろうとする人が、御上(おかみ)の「規範」なるものを挙々服属したとすれば、競争上の独創(positive differentiation)そのものが生まれる機会は消え去る羽目になるだろう事は、誰だって簡単に わかる事だ。
2015-02-22 23:49:35モデルの流儀、様々ある中に、これを流派と立てる事が興る。その流派の技術は、その流派の やりかた として、その主義を重視するが、論・技術の一貫性を守る事はいいのだが、論・技術の一貫性は事物(事実)にこそ因るべきである。
2015-02-22 23:52:33