佐藤正美Tweet_20150301_15

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佐藤正美 @satou_masami

読者が作者を侮辱する――それを人々は批評という。作者が読者を侮辱する、それは傲慢だといわれる。

2015-03-04 11:24:21
佐藤正美 @satou_masami

私はTM(モデル技術)を作ったが、それが我流ではないかという疑念につねに悩まされてきた。数学基礎論の断片を集めた がらくた をつめこんだ倉庫を一つ建てただけの事ではないかという徒労感に苛(さいな)まれてきた。自説に自惚れるという事も、存外なかなか難しい。

2015-03-04 11:33:48
佐藤正美 @satou_masami

間違いは、古くなっても、それだけ良くなる訳ではない――それに気づいて訂正しないかぎりは。間違いに時効はない。

2015-03-04 11:36:07
佐藤正美 @satou_masami

自説を立てようとして気張ったりなどしなければ、もっと早く間違いを思い出すであろうに。

2015-03-04 11:37:05
佐藤正美 @satou_masami

「学者は聞く所に溺れる(学んだ事に拘泥する)」――誰が言った ことば か忘れたが、一理あると思う。

2015-03-04 11:40:37
佐藤正美 @satou_masami

専門家は、反駁する時には、たいがい意地が悪い。相手を無知の様にみなしている。

2015-03-04 11:41:29
佐藤正美 @satou_masami

材料よりも労働力のほうが多い分野では、わずかな材料で自説(他人の説とは違う説)を作ろうと躍起になれば、歪な説が時に生まれやすい。

2015-03-04 11:45:14
佐藤正美 @satou_masami

事態の詳細な記述を以て事態の代わりにするという訳にはいかない。たとえ記述が実際の事態に迫る様なものであれ、読者はそういう記述を最後まで静観する力を維持できない――途中まで読んで退屈するのみである(あるいは、勝手な空想に浸るくらいだ)。

2015-03-04 11:48:10
佐藤正美 @satou_masami

事態の詳細な記述は(退屈だが、退屈に堪えて)幾度読み返してみたところで、(実際に)体験していないかぎり、読者はその光景を頭の中に描く事はできないであろう。記述は詳細だが、見た様に思うだけである。「事実」を正確に記述するために、詳細さが一番の目的とされるや否や、退屈する。

2015-03-04 11:52:54
佐藤正美 @satou_masami

記述の目的は、事態のなりゆきと そのなりゆきの原因(理由)-帰結だと云ってよいかもしれない。様々な事態が しっかり立ち、現実味を伝えるのは、これに因ってである。相互関係がない事態を造作しない事が記述の技量なのである――モノを並べるだけで構造が記述できるのである。

2015-03-04 11:56:59
佐藤正美 @satou_masami

様々な出来事をすべて我々は「日付」で認知する。この「日付(時間軸)」という尺度がなかったならば、出来事の「事実」というものはどうなるか、おそらくそれらの可能性が想像されるにすぎない。因果関係は、時間のいきさつを判断しながら把握するのだという事は誰にでも簡単に考えられるはずだ。

2015-03-04 11:59:46
佐藤正美 @satou_masami

論理の世界において無用であっても現実の社会では見栄えのためには所用な装飾を私は嫌ってきた。自分をセールスしなければ、その存在すらわかってもらえない事を私とて知らない訳ではない。しかし、論理的に構成され押し黙っている証明こそ明晰さの根源であると私は信じている。

2015-03-04 12:02:47
佐藤正美 @satou_masami

論説の正否は投票では決められない。喝采を得るために飾れば、必ず、一歩踏み外してしまう。

2015-03-04 12:03:33
佐藤正美 @satou_masami

モデルは、いつでも因果関係を取り上げ、またその本来の仕事が説明(論証)にあるのだから、モデルは実例の論理的分析の他はひかえるべきであろう。

2015-03-04 12:05:08
佐藤正美 @satou_masami

モデルとは、実例から引き出される論理(論証)である。

2015-03-04 12:05:38
佐藤正美 @satou_masami

管理情報(原帳票など)を材料にしたモデルは、必要な事は漏らさず記述している――ひとつの物事を繰り返して記述する事(redundant )はしない。実際の物事は唯一無二である。

2015-03-04 12:21:11
佐藤正美 @satou_masami

「事実」に照らして正しいにせよ間違っているにせよ、ともかく一つの論証は無矛盾である――その論証が「事実」の在り得たかもしれない可能性を示すものなのか、それは今 議論しまい。値が充足された時、すべてが「事実」だという事で手短に結論したほうがいい――それが「事実的真」という事である。

2015-03-04 12:24:40
佐藤正美 @satou_masami

私は議論を好まないが、その唯一の利点を認めている――問題の前提条件を私が正しく判断しているかどうかを確認できる事である。

2015-03-04 12:25:49
佐藤正美 @satou_masami

「貴方(あなた)は、どうして狭い領域から出ようとしないのか(データ・モデルにしか興味を抱かないのか)、そこから一歩踏み出してほしい」と、私に言った人がいた。しかし、分にとどまる事を知らずして、物事を身をもって知る事はできないのではないか?

2015-03-04 12:29:11
佐藤正美 @satou_masami

他人の論・技術を初めて見た時、自分の才知がそこまで至っていないために その論・技術を気に入らない事が時々ある。しかし、その論・技術に私を惹き付けるものを感じたら、私は近づく様に努めてきた――そして、自分の知らなかった自分の新しい力を発見する事もあった。

2015-03-04 12:32:56
佐藤正美 @satou_masami

普通に考えると、視覚というものは、なんの講釈もいらない、一瞬にして対象の外観を把握する。いっぽう、その論証では、その外観の条件を寄せ集めて一つの構成を作り上げて、それがその対象だと判断する。ここに認識の形式と内容との区別がある。一つの秩序(構成)が思考を定める形式となる。

2015-03-04 12:35:59
佐藤正美 @satou_masami

認識の基底には事物の汎化されたパターンがあるのは事実であろう。そして、その尺度で個々の事物を測定する他はない。しかし、それはついに正確な(厳密な)認識ではなく事物の共通の要素から類推するやりかたにすぎず、個々の特性(或る条件下での特性)は排除されている。

2015-03-04 12:39:31