日本の女性が男の後ろを歩くのは斬られないため!?ホントか?
- inuchochin
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「三尺下がって師の影を踏まず」もとは七尺というのは考えてみれば当然だな。三尺だと太陽が真上にある時か、よほど背の低い先生じゃなければすぐ踏んじゃうもんな
2015-03-31 17:22:52@baritsu ありがとうございます。童子教からで七尺ですか。どっかで「七尺は下がりすぎてリアリティがない」みたいな判断が働いたんですかね。
2015-03-31 18:13:20歴史的・伝承的にずっとそう伝えられたという事実のあるものと別に、室町時代に「鎌倉の頃は」、安土桃山や江戸で「室町の世には」、明治以後「江戸時代には」と、その時その時で新たに創作されるタイプの「昔語り」が存在するものだと思っている。実はウチの先生にもそういう所ある。
2015-03-31 10:33:39こないだの古武道先生の三尺下がって、も素人から詳しそうと思われる人が言うからたちが悪い。 「単なる「素人の思いつき」程度のものを書き殴っただけのものが多い。当然。初歩的な間違いだらけなので、歴史にそれほど詳しくない人間でもツッコめる」twitter.com/baatarism/stat…
2015-03-31 12:40:34女性は「3歩下がってついていく」の本当の意味という話への疑問 - 火薬と鋼 (id:machida77) d.hatena.ne.jp/machida77/2015…
2015-03-31 18:33:19”古武術 天心流兵法”さんが三田村鳶魚、名和弓雄の時代考証書籍を引用してくださいました。
士分における夫婦外出についての資料として、さっと出せるのは、三田村鳶魚「江戸武家事典」。 ◇夫婦の外出 下士も同伴せず 俵でもらう小禄な武士でも、夫婦は大概同行しなかった。それは妻がお供のようになるのを気の毒に思って、同行を避けるほどの心掛けはあった。
2015-04-01 06:51:21万一よんどころなく同行する時には、引き離れて同行し、各個が独行するようにした。 一僕も連れられないほどな身分でも、妻の体面を重んじるに努めたものである。
2015-04-01 06:54:02以上が武家についての記述で、続いて町人についての記述があります。長いですが、敢えて全文載せます。 町人も離れて歩く 武家では奥と表を厳重に分けて、表は男性の支配により、奥は女性の管掌に委ねてあった。
2015-04-01 06:58:04低い武家でも下女小間使に至るまで、女性の奉公人の進退は悉く主婦の計らいであって、決して主人が、口出しをしない例であった。 もちろん中間、小者の方は主婦が口を出すような事は絶対になかった。 町家さえ女房のことを家内という言葉が通用していた。
2015-04-01 07:00:30江戸ッ子は女房を道連れのように思っていたと落語では言う。 今日の人には面白く聞けるかも知れぬが、夫婦同行はしなかったものだ。 何としても同行しなければならぬ時は、遠く離れて左側と右側を通る、お供も別々に連れている。 これはなぜかといえば、同行すれば婦さ必ず夫のお供のようになる。
2015-04-01 07:02:53一家の中心を執る上から夫唱婦随とはいうものの、お互いに両体一身で、夫の身体の半分が妻で、妻の身体の半分が夫なのだから、五分五分のもの、それが一時でもお供のようになってはならない、この理由で夫婦同行をしなかったものである。
2015-04-01 07:05:07三田村鳶魚先生の作は江戸期の随筆や聞き書きからのもので、一級資料に劣る所があり、これが江戸の真実、実態の全てなわけではありません。 ですが、江戸学の祖とされる三田村先生の偉業はやはり類い希なものがあり、江戸雑学本の種本は多く三田村先生の著作だったりするようです。
2015-04-01 07:11:02続いて、名和弓雄先生の「時代劇を斬る」よりまず途中までを。 ◎妻女は同道では笑い物になるー三尺下がって師の影を踏まずの怪 平成八年四月十五日号のある月刊新聞に、「第一話・武の炉端噺・三尺下がって師(主)の影を踏まず」という武家作法らしい話が掲載されていた。
2015-04-01 07:27:49その内容を要約すると左のとおり。 「嫁入りのとき、武家の奥方との心得として、秘かに母上より受け伝えられていったものに、男性は威張って手ぶらで歩くが、奥方は常に弱々しく後ろから大きな荷物を胸に抱きかかえてついていくというのがある。
2015-04-01 07:31:25路上で主人が襲われたときら奥方は敵の顔面に荷物を投げつけてその初太刀をひるませ、主人に反撃の時間を作らせること」 「主人の影から三尺下がってという三尺の距離にこだわったのは、武人としての間合の理念があったから。
2015-04-01 07:34:09三尺なら、異変を感じて無意識に反転、鞘から二尺四寸の業物を払うことができる。 すなわち、三尺下がってとは太刀筋の距離であり十分な大刀の間である。 また、太刀筋より三尺以上離れると、狼藉者が割り込んでくることができる」
2015-04-01 07:35:46ここまでが名和弓雄先生が引用した部分。この後この口伝をフルボッコにします。 以下は、引用の後の名和先生の文です。 たいそう面白いが、この作法は間違いだらけである。 これは江戸時代というものをご存知ない現代人の、テレビ・ドラマ的発想の虚構であって、有り得ないことである。
2015-04-01 07:39:01侍(武士)は、たとえ奥方であっても、女性を連れて歩くことは有り得ないという不文律があった。 奥方同伴は世人の笑い物になる。 これは武士教育の初期から、誠に厳しく教育されたことである。 一例を挙げれば、会津の松平氏の幼児教育機関で「什(しゅう)」というのがあり、 諚があった
2015-04-01 07:43:56すでに紹介したものであるが、その七条目に「戸外で女の人と話してはなりませぬ」とあったことを思い出していただきたい。 武士教育として男女間の行動は幼時から厳しく規制されていたことは、日本全国の各大名家で同様だった。
2015-04-01 07:46:02結婚後の夫婦でも、妻が夫の後をついて歩くことなど、まして夫の護衛役を務めるなど、夢にも考えられぬ一大椿(ちん)事である。 江戸時代末期のこと。神田の街で妻女同道野若侍が、町の若者たちの的になり、対(つい)には殺されるという大事件があったも先述した。
2015-04-01 07:49:13妻女同道は珍しいことなので、調子にのりすぎて「何とか言えよ」とばかり若者の一人が若侍の頬を殴ってしまった。 そして耐えかねた若侍が、相手を抜打ちに斬ってしまった。 その後も刀を振りまわす若侍は、町人たち群衆に梯子捕りにされ、押し潰されるという事態になったのであるが、
2015-04-01 07:52:02侍のほうに非がありとされ、町の連中は断罪されなかったという。 繰り返すが、妻女同道は武家社会では有り得ないことなのである。 家長の留守を護るのが妻女の役目であり責任であるから、主人の護衛が必要な場合は、腕の立つ護衛を雇うことになる。
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