.@naoya_fujita 「世界内戦とロスト・ジェネレーション」 笠井潔×白井聡×鈴木英生 司会:藤田直哉
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@naoya_fujita なんとなくのニュアンスなんで話半分で。世界はテクストの最初から革命とか啓蒙とかみたいな言葉がチラついて、そこは作者のバックボーンとか欲望の表れとかで片付けていいし、趣味の問題でもある。セカイは自分への欲望というかナルシシズムも含んだ自分と世界の闘争が
2010-12-19 23:04:55@naoya_fujita 問題になるようなニュアンスで受け取ってもらえれば。至道流星作品未読まおゆうほぼ流し読みのポップカルチャー寄りの意見だし、本はまだ積んでるんでちゃんと読んだらまたつぶやきます。
2010-12-19 23:08:44僕は正直なところ、笠井さんの『例外社会』は凄い本だと思うけど、「世界内戦」をマジックワードにすることはなるべく禁欲したいと思っているし、論文ではそうしたつもり。とはいえ、『サブカルチャー戦争』で中心にした「世界内戦」概念はゼロ年代後半の作品を語る際にかなり使えると思うのです
2010-12-19 23:12:29.@evataka その辺の問題系は、現象学や観念論とか革命理論(世界) と ポップカルチャー以後の想像力(セカイ) ということに大雑把に言えるのかもしれませんが、そこでの断層と同一性は結構議論になっているところです。
2010-12-19 23:16:39@naoya_fujita 「今までと違う」ことを論じるには、やはり「今まで」がどうだったかも分析・記述しないとどうもいまひとつ説得的にならないように思います。映画(小説もですが)の技法というのはわりと広範囲で用いられるので、ちょっと枚数的にいろいろな要素を扱い過ぎかなとも。
2010-12-19 23:17:48@naoya_fujita たとえば「本当のことだ」とテロップをいれる形式は、ギャング映画などでよく使われていたように思います。「実録もの」てきな技法ですね。疑似ドキュメタリーの技法というのも、ではドキュメタリーとは形式的にどう違うのか?という問題があります。
2010-12-19 23:21:27@naoya_fujita そういうことを語らない、というのは選択として理解できますが(単純にスペースの事情など)、そういう問題がある、ということはわかった上であえて無視します、というのは示唆しておくくらいはしていただきたかったかな、と。どうもむずむずしちゃうんですね。
2010-12-19 23:23:46@naoya_fujita ワイズマンみたいに劇映画以上にクールでスタイリッシュな「映画」になってるドキュメタリーもありますしね。これぜったい嘘だ、みたいな。
2010-12-19 23:43:31ん? RT naoya_fujita: 擬似ドキュメンタリーとドキュメンタリーの判別不可能性については、(...)基本的に「嘘です」と露骨に分かるものを作者が入れていなければ、その作品だけで判別はできません。『フィクションの哲学』もしういう結論でした。
2010-12-19 23:58:30まだ、「サブ戦」(って略していいのかどうか知らんけど)読めてないし、『フィクションの哲学』もちゃんと内容入ってないけど、『フィクションの哲学』は事実か嘘かとか、作者の意図とかいったものをできるだけ組み込まないようにしてたんじゃなかったか
2010-12-20 00:01:44その上で、清塚説で疑似ドキュメンタリーをどのように扱えるかは結構難しい気がする。以前、シンポで質問したことあるんだけど、多分「疑似ドキュメンタリー」ってのが何か上手く伝えられなかった、かつ、「それは難しい問題ですね」的に断言を避けていたはず、確か
2010-12-20 00:03:41そもそも『フィクションの哲学』は、典型的なフィクションの特徴を探すというものだったはずで、一方、「疑似ドキュメンタリー」がフィクションをノンフィクションと見せかける手法である以上、うまく説明できないのは仕方ないと言えば仕方ない
2010-12-20 00:05:43@naoya_fujita ええと、そうでしたっけ。僕の記憶では、「作者と語り手が分離していること」がフィクションの典型的な特徴である、というのがあの本の主張だったと思うのですが(フィクションか否かの判定はできてませんが、少なくともある特徴は示そうとしている)
2010-12-20 00:10:52カメラ通している以上、全部フィクションだろという考え方があって、清塚説はこれに当たるかなあと思ってパラパラ読み返しているんだけど、清塚によればそれはWalton説のようだ。まあ、清塚説はWalton説を前提にしていはずだけど
2010-12-20 00:18:35ただ、清塚は、フィクションとノンフィクションが区別できないとは考えていないはず。というか、常識的にそういう区別があることを前提にしていると思う(ただ、彼が示そうとしている区別と常識的な区別もまた一致しておらず、TLでは結構反対意見が出てたはず)
2010-12-20 00:21:53視覚的表現に関して確かに、「フィクション」と「ノンフィクション」が「連続的」であると書いてありますね。ただそれと同時に「フィクションとフィクションならざるものとのあいだの境界線が漠然としているということではないともあります(p.163) @naoya_fujita
2010-12-20 00:39:30これは「フィクション」概念がいまだ曖昧であるという暫定的な結語だと思う RT @naoya_fujita: .p251 「ではどこまでをフィクションと見るかについては、視覚的な作品群の内部には手頃な境界線が見あたらないというのがそこでの結論である」
2010-12-20 00:41:03@naoya_fujita さっき最初にRTした部分で一番気になったのが、「作者が入れていなければ」という部分で、それを『フィクションの哲学』の結論と並べたことです。フィクションかどうかの判断に、作者は必ずしも必要ではない、というのがWalton=清塚説の中心的主張なので
2010-12-20 00:44:36