「理論的サンプリング」という考え方があります。「偏りのないサンプル」を得るのでなく「典型例を抜き出す」という考え方。 RT @fusan02: 素人なのの良く分からないのですが、個体間の分布を考えた場合に5個のサンプルで十分な「バラツキ」を推定できるものなのでしょうか?
2010-12-26 11:34:25これは科学的な手続きとしてどうでしょう?こういう事例研究が特に社会科学系に多い現状に対して私は否定的です。RT @ynabe39: 研究というものはすべてそうだ,というのがわたしの主張。その時に母集団の推定の妥当性を「無作為抽出と大数の法則」から得る方法もあるし,そうでない方法も
2010-12-26 11:34:51自然科学のコミュニティは分野を超えているのが特徴です。「人文学」といっても文学,哲学,歴史学などが「共通のコミュニティ」とはとうていいえない。 RT @ALC_V: どの程度の広さかはかなりな違いになりますよね。「再現性やコントロールがなければならない」てのもコミュニティの合意
2010-12-26 11:59:27自然科学だって「有用」であるから,あるいは「有用であるために」やってるわけではないと思うんですが。 RT @y_mizuno: その学問は、何を目指すのでしょうか? 何かに有用。その何かとは何でしょうか?
2010-12-26 12:00:36失礼、これは言い過ぎで、使えない知識は情報であってもよい。でもそれならgoogleで十分ですよねw 歴史学はGoogleとどこが違いますか? 文脈の生成でしょうね。それは何のためですか? @y_mizuno 科学の語源である「知識」に戻ると、使えない知識はデータでしかありません
2010-12-26 12:02:10例えば生化学と生態学では取れるデータの精度が違いますから。 @sivad: @ynabe39 @ALC_V 自然科学でも「再現性」や「コントロール」のとらえ方には幅があるかと
2010-12-26 12:02:45自然科学はそれぞれの分野が別々の長い歴史を持っている人文学と違って比較的短い期間に相互に深い関係を持ちながら急激に発展したこと,そこに物理学を頂点としたヒエラルキーを持っていることで「コミュニティとしての均質性」が高いのが特徴と思います。
2010-12-26 12:03:42おっしゃる通り。直接に間接に、役立つかどうかは自分が決めるものではない。しかし経験的に、系統的、普遍的な知識は役立つことを知っているからやっているのでは? RT @ynabe39 自然科学だって「有用」であるから,あるいは「有用であるために」やってるわけではないと思うんですが。
2010-12-26 12:04:31しかしその幅や差異は心理学と倫理学の間にあるそれと比べれば著しく小さいと思います。 RT @sivad: @ALC_V 自然科学でも「再現性」や「コントロール」のとらえ方には幅があるかと
2010-12-26 12:04:42それは「科学的事実」ではないですよね(笑)。 RT @y_mizuno: しかし経験的に、系統的、普遍的な知識は役立つことを知っているからやっているのでは?
2010-12-26 12:05:31系統的普遍的な知識が(いずれなにかに)役に立つという「常識」は学問の存在を支える非常に大きな力です。そこで「系統的な知識」「普遍的な知識」を手に入れる方法論の違いで学問が分化することはあります。
2010-12-26 12:07:0019世紀から20世紀にかけて「自然科学的方法論」が「すべての学問を進歩させるグランドセオリー」として強く期待されて「人文科学」「社会科学」といった言葉が生まれて,すべての学問の科学化が目指されたわけです。それは成功した部分もあるしそうでない部分もあるというのが現在の視点。
2010-12-26 12:08:52素晴らしい。その通り。メタで経験的な知恵ですw RT @ynabe39 それは「科学的事実」ではないですよね(笑)。 RT @y_mizuno: しかし経験的に、系統的、普遍的な知識は役立つことを知っているからやっているのでは?
2010-12-26 12:09:30「コミュニティ」というもの自体がつねに重層的で入れ子構造になっていますからね。 RT @sivad: @sivad: @ALC_V 生化学のデータは生態学より高精度ですが、条件はより人工的ですね。どういうレベルでモデル化するか、という合意なんでしょうね。
2010-12-26 12:10:20「夏目漱石の坊ちゃんの研究」をしている人にとって「母集団」はなんなのか,分析されていない部分も含む「坊ちゃんの全ページ」なのか,「漱石の作品全体」なのか,「明治の日本文学全体」なのか,「日本文学全体」なのか,「世界文学全体」なのか,「テキスト全体」なのか。
2010-12-26 12:14:45そこは同意。でもその放棄は行き過ぎかと… RT @ynabe39 19世紀から20世紀…「自然科学的方法論」が「すべての学問を進歩させるグランドセオリー」として強く期待…「人文科学」「社会科学」…すべての学問の科学化…成功した部分もあるしそうでない部分もあるというのが現在の視点
2010-12-26 12:15:05もちろん放棄する必要はない。研究したいものがそれで研究できるなら使えばいい,でもそれでは研究できないことは別の方法でやればよい。シンプルな話です。とくに心理学は両方を自由に使える。 RT @y_mizuno: そこは同意。でもその放棄は行き過ぎかと…
2010-12-26 12:17:29@ynabe39 ベリリウム9(Be9)という原子核の研究をしている人にとって、その母集団(というか参照枠、何の一部なのか)は、宇宙の元素合成理論のためのBe9なのか、クラスター構造研究のためのBe9なのか、中性子過剰核の出発点のBe9か、原子核の結合エネルギー全体の系統性か?
2010-12-26 12:19:46主観の問題ですが,けっきょく「専門家の主観は非専門家の主観と同じなのか違うのか」という論点に集約されると思います。一般的にはその二つの主観は区別されることが多いでしょう。しかし自然科学は専門家の主観も排除されるべきものと考えて知識の妥当化を研究者の外部に委ねた。
2010-12-26 12:21:02人文科学ではなく人文学とおっしゃるのは、科学と言える部分が小さいというご主張ですか? RT @ynabe39 もちろん放棄する必要はない。研究したいものがそれで研究できるなら使えばいい,でもそれでは研究できないことは別の方法でやればよい。…とくに心理学は両方を自由に使える。
2010-12-26 12:22:07けっきょく「何が母集団なのか」は「研究者が決めること」なのです。母集団を決めることができてはじめて,適切な研究計画,研究方法が定まります。ときには母集団を定めること自体が研究になる人もでてきます。
2010-12-26 12:24:13それは私見では、20世紀前半の人文・社会「科学者」(哲学、社会学、経済学さえ)のご努力の結果と心得ており、感謝してます。学問の本来の姿…。@ynabe39 自然科学者もそういうことを(ときどきは)考えないといけなくなったのが20世紀後半の自然科学の歴史ですね。 @y_mizuno
2010-12-26 12:26:04そんな消極的な意味ではなくて「科学である必要などない」(科学であるかどうかは研究者が選択可能)という主張です。 RT @y_mizuno: 人文科学ではなく人文学とおっしゃるのは、科学と言える部分が小さいというご主張ですか?
2010-12-26 12:26:12弊害が大きかったから、という理由ですか? RT @ynabe39 そんな消極的な意味ではなくて「科学である必要などない」(科学であるかどうかは研究者が選択可能)という主張 RT @y_mizuno: 人文科学ではなく人文学とおっしゃるのは、科学と言える部分が小さいというご主張?
2010-12-26 12:27:40