佐藤正美Tweet_20150516_31

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佐藤正美 @satou_masami

「一体、物事の『意味』とは何だ?」 「物事の『形式』です。」

2015-05-30 03:31:47
佐藤正美 @satou_masami

或る思想が難しいと思った時は、よく考えよ──遠くを探るのはムダである。目につきにくいのは「形式と意味」との関係なのだから。そして、現実(事実)の再生(復元)というもの、つまり事実の記述をやってのけるのは、まさにこの形式(記号)の関係なのである。

2015-05-30 03:35:30
佐藤正美 @satou_masami

モデル(模型、実例)は決して事態の生き写しの様なものではなくて、事態を生起させている諸条件(構成条件と制約条件)の「形式」を与え、論理の光彩(色線)を示すものなのである。それは私が真似る一種の「現実(事実)」なのだ。私の思考は、否応なしに一定の論理形式を強いられる。

2015-05-30 03:39:19
佐藤正美 @satou_masami

モデル [ 模型、実例 ] は論理形式によって記述され、またその形式によって共有される。それゆえ、モデル作成とは、対象に対して、何を条件化し、何を制約とするか、「関係(モノの相互の関与)」と「(モノの)制約束縛」という必要十分条件を見出す事にある。

2015-05-30 03:43:38
佐藤正美 @satou_masami

モデル構成は、窮屈を感じることなく自然に終結するような論理なのである。だから、私をはっきり目醒めさせる。だが、何に対して私は目醒めるのか。モデルは二重の顔(事実的真と論理的真)を待つ。「在るがままに有る」に類する実にありふれた論理的抽象にすぎない。

2015-05-30 03:48:05
佐藤正美 @satou_masami

「論理」というすばらしい数学的道具によって生け捕りにされている現実的事態が私を魅了する。規約と云うべきか、そしてロジシャンが規約を守り、一語一語がただ一つの意味のうちに余すところなく存在し、観念が語の文法に従いつつ形成される時、その時改めて我々は我々に向かって語りかける事をする。

2015-05-30 03:52:26
佐藤正美 @satou_masami

たとえ、それが我々がもう熟視しようとしないありふれたモノであってもいい、我々は、普段、集団を形成して、「右側通行」などという符牒を受け渡しながら行動している。論理は、そういう符牒を揺さぶる。先ず論理否定(補集合)を考えてみればいい、そうすれば与件の集合がいっそうはっきり見える。

2015-05-30 03:56:28
佐藤正美 @satou_masami

論理とは、我々が bias から脱する事だ。論理によって、事実的なものが浮かびあがる。論理の無矛盾性というべきものによって、我々の思考がゆさぶられる。それは決して行為をもとめるものではないが、無矛盾性そのものが思考を探っているのだ。

2015-05-30 03:59:43
佐藤正美 @satou_masami

取り乱したところがあるから、醜く(粗野に)なるのではないか。だから、自分のありのままに姿を見せたいと思うならば、先ず外見を抑制して、そうありながらも同時に、懇意になる事ではないか。

2015-05-30 04:01:33
佐藤正美 @satou_masami

至近距離にて自分をたびたび晒して、魅力が薄れていって飽きられる様な自分ではありたくない。懇意になればなるほど(more familiarity)相手を魅了する自分でありたい。

2015-05-30 04:04:01
佐藤正美 @satou_masami

そこそこ有名になる事は難しい事ではない――世間の期待に添うだけの知識を持っていて、押しだし(presence)の強さがあればよい。そして、大なり小なりの便益を人々に期待させていればよいのである。神様を作るのは信徒たちなのだから。

2015-05-30 04:08:20
佐藤正美 @satou_masami

自分を大衆に晒し続けるという事に対して、いつまでも羞恥を感じないというのは、脳細胞が筋肉質になってしまっているのではないか。

2015-05-30 04:09:42
佐藤正美 @satou_masami

些細な仕事であっても、実際にやってみなければわからない工夫があるはずだ。独力の工夫に因って自分の力を試す、そういう体験を重ねて実力が着々と養われる。この ささやかな工夫というものが持っている力がわからないと仕事というものの愉しみがわからないのではないか。

2015-05-30 04:12:39
佐藤正美 @satou_masami

普通なら、形を真似る事は簡単だが、意味を把握するのは難しいと云うでしょうね。姿(形式)が難しいと知る事は、猿真似にはわからない。姿(形式)が意味である事を了得するには、存外長い年月を費やさなければならないのかもしれない。私は還暦になって、やっと それを実感できる様になった。

2015-05-30 04:16:30
佐藤正美 @satou_masami

事態を観る自分と観られる事態との間に、どんな先入観も介入させない事、自分と対象との間の この関係の中には、ただ「論理」の作用だけを認めればいい(事態を理論式として扱う)、というのがシステム・エンジニアの態度ではないか。

2015-05-30 04:19:26
佐藤正美 @satou_masami

通説を学ぶのは正しい、しかし、それを実地に適用してみれば、覚えた知識だけでは埒があかないので工夫せざるを得ない。寧ろ通説を疑って疑って、疑った末に「論理に因る構成法」しか信じないという態度がシステム・エンジニアの態度ではないか。

2015-05-30 04:22:32
佐藤正美 @satou_masami

衣装を着替える様に人柄を改造できるものなら――そういう類のハウツー本の宣伝が新聞広告で目にするけれど――さぞかし社会は清々するでしょうね。私は自意識と安直な折りあいをつけようと思わないし、つけられるはずもない。今更ながら、こんな性質になった事を耐えるしかない。

2015-05-30 04:27:29
佐藤正美 @satou_masami

私は、若い頃、数々の人生論を読んだ。そして、それらを読んでいる最中は気持ちが落ち着いた。そして、その中から気に入った文を抜粋して、さながら「標語」の様に座右の銘とした――しかし、それは、「現実」を直視しないで、不安を隠蔽させる即席の幻覚剤をもとめて足掻いていただけの事だった。

2015-05-30 04:31:11
佐藤正美 @satou_masami

独創とは、美しい着想に出会うこと、そしてその着想が平凡に見えるのに気付くまでの中間にある陶酔なのかもしれない、、、。

2015-05-30 04:32:17
佐藤正美 @satou_masami

思い切った行動にでた人が逆上(のぼ)せていると非難されるのは、その行動を続行しないで中途で止めた場合だけである。

2015-05-30 04:33:57
佐藤正美 @satou_masami

「酔ひて、同じことしたる」(枕草子)、酒類に限らず、思想などに酔っぱらった状態についても言える――思想に関して言えば、視点・思考がブレないという事じゃない、思想に酔うとは逆上せと同じ、杓子定規(reality のない realism)という事。

2015-05-30 04:37:46
佐藤正美 @satou_masami

子どもは美しい花を見ると直ぐに摘み取って、花の美しさを台無しにしてしまう。大人(おとな)は美しい花を見た時には、敢えて手を出さないで、それを眺めている――手を出さないでおく事も了得(会得)の一つである。

2015-05-30 04:40:51
佐藤正美 @satou_masami

「不完全性定理」(ゲーデル)の証明法とは、数の行列の中に異常が割り込む事を決して黙許しない事である。そして、それがゆえにこそ、この定理の前提(数の並びに対応した証明可能性)を「無意味」(法則ではない、という事)と云ったのがウィトゲンシュタインである。

2015-05-30 04:44:34
佐藤正美 @satou_masami

「如是(あるがまま)」――それなら選ぶ事は間違いであり、一切が同時に在ってこそ「真」であると論評する事はたやすいが、ロジシャンは「事実」の受信装置になろうとする、しかも判断を失う事なしに。

2015-05-30 04:47:11