一度睡眠をおいてしまえば 昨日の出来事はもはや歴史と化して現実味を失い だからあの体験も、自分の被害妄想が生んだまやかしではなかったかと 半信半疑の心持で、自殺男は翌日も仕事場に向かった
2015-06-17 14:39:21さりとて現場に立ったあとは 言いようのない怯えに包まれ、足元がおぼつかなく 不特定多数の人間から浴びせられる視線に真皮を掘り返される心地がし、 そのように不安定な精神状態でのビラまきは 大変難しいものがあった。
2015-06-17 14:41:47そうこうするうちに自殺男は自分の背後に気配を感じた。 そういう場合、自分からチラシをもらいに来ている奇異な人物であるケースが多かったので、自殺男はその瞬間は何の警戒もなく ただただ職務意識で 似合いもしない作り笑いとともに振り返った。
2015-06-17 14:43:08小太りの中年女性は嗜虐性しか背景にない満面の笑みを浮かべつつ彼に迫ってきた。 自殺男は血の気が引いた。 中年女性と今再び同じ地平に立ってしまったことで 終わったはずのおぞましい過去が、その瞬間再起し始めた。
2015-06-17 14:54:09その時間に色は宿り、なかったことにできたすべての恥辱が 形を取り戻し出した。 自殺男がこれまで恥を忍んで底辺職を転々とし続けられたのは 純然たる飢えと
2015-06-17 14:59:16首になるたびに過去をリセットできているという都合のいい思い込みによるものであったのだが その構図を中年女性は一瞬で崩壊させてしまった。 そしてその衝撃と恐怖を、中年女性は存分に理解できているようで あえて下の名前にて自殺男を呼んでくるのだ。
2015-06-17 15:01:17自殺男が首になった会社には同じ苗字の男がいて 結果その男は苗字で、自殺男は下の名前で呼ばれていた。 成人を超えてから下の名で呼称されるのはひどく奇異なことで 自殺男は無防備な心の奥底を握られているような、ひどく居心地の悪い思いをした。
2015-06-17 15:06:10同じ苗字の男は社内で十分な地位を築いているようで 妻子もいるのだと語っていた。 自殺男にはその苗字と名前の差が 子孫を残せるまっとうな人間と 一生底辺で死んでいくしかないゴミとの違いに思えてならなかった。
2015-06-17 15:08:22自殺男はすでに現実社会の中においては 人間などではなくなっていたのだが その自覚にさらに拍車をかけられ 結果自殺男にとっての一種のトラウマとなっていたのだ。
2015-06-17 15:09:04そして今この現場に、同一苗字の男は存在しなかった していようはずもなかった。 にもかかわらずこの女は変わらず、わざとらしくさん付けで、下の名前にて呼んでくるのである。 それは自殺男があくまで首になった会社の元アルバイトであり
2015-06-17 15:12:30自分はそこの社員であるという 圧倒的な格差のある関係性を再確認させるため行為に他ならなかった。 そのやけに細い目はいつもどおり笑っていたが まぶたの奥の暗い瞳には 壊しがいのあるおもちゃを見つけた子供のような残虐性が滲み出していた。
2015-06-17 15:16:00「○○さんでしょ?」 「こんなところで何してるの?」 小太りの女は心の底から愉快気に笑った。 自分たちが一度無職に落としてやったゴミが 餓死するでも自殺するわけでもなく
2015-06-17 15:20:14再度仕事にありついている現実を多少不快に感じつつも はるか社会の最底辺で、地を嘗めながら汚辱にまみれている 別な事実に溜飲を下げ そして今やそのすべてを楽しもうとしていることが 一瞥で理解できた。
2015-06-17 15:21:04「ねえこんなところで何してらっしゃるの?ねえ!?」 「みんなでね、○○さんどうしてるかなって、うわさしてたの」 「○○さん、急にいなくなっちゃったから」 「急に○○さんみたいな人がいたからびっくりしちゃった」
2015-06-17 15:23:08「○○さん、『個性的』だから」 「ここでの仕事ってどんな感じ?」 「まさか○○さんがこんな仕事してるとは思わなかった。ほんと感心する わたしにはできない」 「○○さんほんと成長したわ」
2015-06-17 15:23:53「こんな仕事をねえ」 「なんでこんなことしてるの?お金がないの?」 「もう一度帰ってきたら」 彼女は真に興味津々たる心のうちを隠そうともせず マシンガンのように畳み掛けた。
2015-06-17 15:24:26結局のところ彼女は自殺男からできる限り情報を引き出し それを手土産に元の職場で再び彼の話題で盛り上がることを目的としていたのだ。 だからその場において、口ひとつ開くことが 自殺男にとっては痛切なる悪手であり
2015-06-17 15:27:52だから彼はアルマジロのごとく身を硬くし ただただ無言で呆けたように彼女に立ち向かった。 その精神異常者のような立ち居振る舞いは 通常の人間であればいたたまれない演技であったはずだが もとより恥にまみれ続けてきた自殺男にとっては もはや一種の持ち芸であったのだ。
2015-06-17 15:35:14中年女性はと言えば、すべてを問い終えても自殺男が先述のごとく口をぱくぱくさせ 道化と化すことで逃げ切りを図っていることを察するや ニヤニヤ笑いを絶やすことなく、「またくるから」と言って去っていった。
2015-06-17 15:41:09また来る、と言った以上、実際本当に来る性格の人物であることを 自殺男はよく知っていた。 ああ、あの女はまた来るのか 自殺男は絶望した。 次は会社の同僚をを引き連れ、見物に来るのかもしれなかった。
2015-06-17 15:43:50しかしながら元を正せば 結局通行人に迷惑をかけて自分が利するだけのビラ配りという 卑しい仕事にしか就けないために 犯罪人のような負い目を感じてかの中年女性と目を合わせることすらできない 自分が悪いのであり
2015-06-17 15:45:37