山本七平botまとめ/【十五年周期仮説でみる昭和史/戦後のパイロット・プラント、大正②】戦後よりも、よりよく機能した大正民主主義

山本七平『1990年代の日本』/十五年周期仮説でみる昭和史/戦後のパイロット・プラント、大正/波乱の幕開け、大正/170頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【波瀾の幕開け、大正】…天皇中心の民主主義の幕開きに続いて「憲政擁護大会」となる。…これは陸軍二個師団増設案が否決され、上原陸相の単独辞任で西園寺内閣が倒れ、ついで元老の持ち廻りで第三次桂内閣に落着くのだが、これに対して閥族内閣反対・憲政擁護・師団増設反対の運動が各地で起った。

2015-06-18 08:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

②…ついでこれが翌2年には桂内閣打倒の一大デモ・暴動・政府系新聞社焼打ちへと発展し、ついに2月11日に桂内閣を総辞職に追い込むのである。 デモで倒れた内閣は戦後の岸内閣がはじめてではない。

2015-06-18 08:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

③…(引用記事省略)…記事はまだ延々とつづくがこの辺で終りにしよう。 これを読んでいると何となく成田新空港をめぐるさまざまな攻防戦を連想する。 というのも、記事の書き方や記者の視点に共通のものがあるからであろう。

2015-06-18 09:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

④いずれにせよ大正は、このように、すなわち、天皇を中心とする民主主義、憲政擁護・軍拡反対、閥族的保守内閣打倒デモ、暴動、倒閣という形ではじまったわけである。 この辺は戦後の出発点を連想させる。

2015-06-18 09:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

①【大正は戦後日本のパイロット・プラント】ではこのようにしてはじまった大正時代は、どのような形で終ったのだろう。 大正15年は昭和元年だから、昭和2年の元日が新しい昭和の第1年目のはじまりである。 そのときの時事新報の社説は「新帝新政の新年」と題して次のように記している。

2015-06-18 10:09:04
山本七平bot @yamamoto7hei

②…(引用記事省略)…いわば大正の終りに大正時代を踏まえて来たるべき昭和に向って、あるべき方向を示したのがこの社説だが、これなどは少し表現を変えれば、戦後の社説として十分に通用するであろう。 いわば平和主義、国連中心外交、軍備縮小がこれから進むべき道とされているからである。

2015-06-18 10:39:05
山本七平bot @yamamoto7hei

③ここで大正の初めと終りの主張をもう一度頭に浮べれば大正の主導的な思想がまさに戦後のそれと一致する事は全ての人の目に明らかであろう。そればかりか美容院、カフェ、職業婦人を始め、チェーン・ストア、私鉄沿線住宅などの大衆文化的な風俗も限られた範囲だったにせよ、全てこの時代に始まった。

2015-06-18 11:08:59
山本七平bot @yamamoto7hei

③また空前のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の教育も大正自由主義の成果であり、このベストセラーは大正への共感を示すものといえよう。 そしてこの大正の余勢は昭和5年まではつづくのである。

2015-06-18 11:38:57
山本七平bot @yamamoto7hei

④従って大正生まれの兵隊が、戦争が終った途端に 「あ、これで昭和五年以前に帰るんだな」 と言って少しも不思議でなく、その予感はそのまま当っているといえる。 では大正と戦後は同じなのであろうか。 決してそうではない。 大正はむしろ戦後のパイロット・プラントなのである。

2015-06-18 12:09:05
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤何しろ六年制の義務教育以上の教育を受けた者は国民の一割に満たない時代である。 さらにテレビ・ラジオといったマスコミはない。 新聞も雑誌も極めて発行部数は少なく、以上記したような進歩的な名論卓説も、それに影響される範囲はきわめて狭かった。

2015-06-18 12:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥さらに選挙は制限選挙で婦人に参政権はなく、政治の動向はきわめて狭い範囲内で決定されていた。 これは前記の記事のデモの人数にも現われている。 だが一面パイロット・プラントは、理想型の如くに運転しうるものである。

2015-06-18 13:08:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦これが制限選挙の範囲内とはいえ、選挙の結果によって政権が交代するという民主主義の模範型的政権交代を生み出した。 この点では 戦後よりも、よりよく機能した といえるであろう。

2015-06-18 13:38:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧またそれを担当した政治家たちには、 政権は藩閥から自分の手で奪取した という意識があり、戦後のように、マッカーサーに与えられた民主主義といった意識はなかった。 その点は明らかに違う。

2015-06-18 14:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨だが大正は、そのパイロット・プラント的民主主義を維持するには経済的に余りに非力であった。 民主主義はさまざまな意味でコストの高い政治制度である。 それを維持するには多くの人は余りに貧しく、一部の人びとのサロン的民主主義談義は多くの一般大衆からは縁遠いものであった。

2015-06-18 14:39:01
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩六年制の小学校を出ればすぐ農業・家業につくか、徒弟奉公・女中・子守り等に出され、見習いとして無給で働かされ、徴兵検査が終ってやっと一人前というのが当時の大部分の日本人の生き方であった。

2015-06-18 15:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪「上の学校へ行ける」のは特権階級であり、 「学校がいやだ」 などと言おうものなら、 「なに贅沢言ってんです。○○ちゃんも△△ちゃんも、もう住込みで働いているでしょう。いやならすぐ小僧に行きなさい」 と言われれば一言もなかった。

2015-06-18 15:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫さらに東北の冷害、娘を売る話、売られていく娘が今日から御飯が食べられると喜んだ話、そういう話を聞かされるだけでなく、行き倒れ、ルンペン、乞食は現実に目の前にいた。 もちろん戦後にも浮浪者はいるが、彼らの表情はあの時代の乞食と同じではない。

2015-06-18 16:09:02
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬それは、誇大表現でなく、字義通りに「食えない人」がいた時代であった。 そしてこの状態が爆発したのが大正7年、富山県で発生してたちまち全国へ波及した米騒動であった。 当時の新間の紙面はほとんど米騒動の記事でうまっている。

2015-06-18 16:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭…ここで8月15日の東京朝日新聞の記事の一部を引用しよう。 【…一団の群衆現はれ…乾物屋、八百屋、薪炭商等の店頭へ殺到し、例の如く強制的の廉売を持懸け、凡そ正札の半額位にて品物を買取り次第に人数を増して掠奪的色彩を帯び来りたれども警戒の警官もヘトヘトに疲れて唯傍観するのみ…】

2015-06-18 17:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮そこで軍隊が出動し、空砲を放って群衆を四散さす。 ところが空砲と知った群衆は逆上して「石を投げ棍棒を振り中には大刀を振かざ」すといった状態になる。 彼らは米屋、精米所、さらに米屋から秘かに米を預った映画館を襲う。 ついに姫路の連隊に救援を依頼するという状況になる。

2015-06-18 17:38:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑯これは、少なくとも経済成長後の日本には見られない状態であった。 現在では、群衆の米屋の襲撃などは夢物語であろうが、まことに大正時代は、パイロット・プラントを全国的規模に広げて運営するには基盤が弱すぎたといえよう。 だがこのこともまた戦後に通じているのである。

2015-06-18 18:09:04
山本七平bot @yamamoto7hei

⑰米騒動の大正7年は、スペインかぜが猛威を振るった年、また山本夏彦氏によれば漢詩が新聞投稿欄から消えた年、田中・中曽根元現首相の生まれた年だが、ある意味では、幕末的・明治的教養文化ないしは規範が消えて、民衆的な別のものが出て来た年かも知れない。

2015-06-18 18:39:01
山本七平bot @yamamoto7hei

⑱いずれにせよこのころから大正は、それが内にもつさまざまな矛盾に苦しみ出すのである。 そして新しく労働者の勢力が台頭して、ある程度、社会的に公認されるようになる。 それは大正9年のわが国最初の労働祭に現われており、米騒動的な行き方はここに帰結している。

2015-06-18 19:08:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑲大正9年5月2日の東京朝日新聞の戦後のメーデーを思わせる記事は、これもまた大正時代にあった事を示している。 …(引用記事省略)…これらの運動の主体…になっていた鈴木文治の主宰する友愛会は…全国労働総同盟へと発展した。 …これもまた戦後日本のパイロット・プラントであろう。

2015-06-18 19:38:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑳また戦後に様々な…話題を提供した「バンパク」のパイロット・プラントもあった。 大正11年2月の『平和記念東京博覧会』がそれであろう。 平和館、平和塔、平和橋、平和の鐘等の名が示し、同時に展示館の性格が示すように、主題は平和と殖産興業であり、まさに戦後の主題と同じなのが面白い。

2015-06-18 20:09:03